やっぱ、北海道~(第9回)

(続き)

 それと、常紋トンネルを抜けたところにあるスイッチバックの常紋信号所であるが、それもこの3月4日に廃止の予定になっている。
 しかも、2016年11月の会社側の説明では、石北本線全体が、「今後継続して運営を維持できない路線」になっているので、ひょっとするとこれが最後の乗車にもなりかねない。が、それにしても車窓が単調である。
 北海道の鉄道としては珍しく、書くことに行き詰まったので、過去の記録を引っ張り出して、鉄道が元気だったころの雰囲気を出してみたい。
 時は、1986年(昭和61年)3月24日(月)。旭川から特急おおとりに乗車し、網走に向かった。この時の列車は、キハ183系の前の世代のディーゼル特急でキハ82系であった。車両の前面の左右の上方に白色灯が取り付けられていて、目つきがキリリとした男前の車両であった。旭川を少し遅れて17時41分に発車。席に着いてすぐに検札のあと、6号車の食堂車(キシ80 27)に移動した。北海道ではこのような食堂車が1998年ごろまで走っていた。
 イカ焼き(550円)でビール(450円)を飲んで、日本酒(370円)を追加すると、身体と気持ちがグニャりと和らぐ。適度の揺れが、効率よく酔わせてくれるのかもしれない。外は陽が落ちてモノクロの世界が広がっている(まだ、その濃淡は見えている)。一方、列車の内側は、グラスや食器の音と会話が賑やかに、天然色カラーの世界で、色とりどりの服を着た客が歓談し、飲食しているのが、窓が鏡になって否応なく見えてくる。これを見ているだけでも寂しく感じない。
4人席の相席で向かい側に座り、カレーライスをズルズルと音を立てて食べるおっちゃんの姿を見ないように目をそらしても、その窓の鏡には映っている。おっちゃんは、もうなくなったビール瓶をもう一度振っている。斜め向こうの席には、すでに酔っぱらっているのに、着席してさらにビールを注文して、ぼぉーっとタバコをふかしているおっさんがいる。陽は暮れているが、白いはずの雪原をわずかな残光が、藍色のモノトーンの世界に変えている。丸い月がぼんやりと中空にかかっている。それを見ると、日高本線の支線の富内線(1986年11月1日廃止)でも見た満月を思い出したりした。あの線も片道82.5キロで、行き止まりの盲腸線だったので、それを各駅停車で往復し、帰り道に陽が暮れて見るものがなくなり、月だけを見ていた。
 食堂車は、待つ人が出るくらいに混んでくるかと思うと空席ができて、程よい密度だ。一人客でも気兼ねなく座っていられるのがいい。最後に、北海定食(鮭、錦糸卵、いくら、山菜の4色弁当 770円)でしめた。映画『砂の器』で、丹波哲郎森田健作の刑事コンビが、秋田からの帰りの急行『鳥海』の食堂車で、ウエイトレスにお茶をもらって駅弁を食堂車で食べていたシーンを思い出す。席に戻ると、ちょうど上川を過ぎたあたりだった。
 食堂車は在来線では、石北本線北陸本線しか乗った経験(覚え)がない。
 北陸本線の方は、仕事で上司の課長とのお付き合いで、特急雷鳥によく乗った。
 大阪の会社に就職して得た仕事は、新薬の臨床開発という仕事であった。いわゆる治験という臨床試験を動かす仕事であった。これは、誰かが一人でできる仕事ではなく、また、会社だけでできる仕事でなく、ある病気の専門の医師がいる病院(多くは、大学病院)に、会社が世に出したい薬の候補品(=治験薬)を患者さんに使ってもらい、必要なデータを必要な数だけもらわないと完了しないという気の長い仕事だった。そして、大概他の製薬会社も同じ医師に治験を依頼するので、その治験を引き受けてもらっても、なかなか進まないというのが常だった。自分は、北陸地域病院の一担当者だったが、偉い大学教授との面会などがあれば必ず課長が同行した。大阪―金沢、大阪―富山は今も昔も関西からの乗客を乗せるための特急(今は、「サンダーバード」だが、当時は「雷鳥」で、新潟に行く「北越」や、青森に行く「白鳥」も走っていた)が頻発しており、課長も酒は嫌いでない方で、帰りは席に荷物を置くと(課長だけはグリーン車だった)二人で食堂車が始まる時間から京都の手前までずっと飲んだ。何を食べたかは余り記憶していないが、イカの黒づくりという塩辛のセットなどがあったと思う。日本酒の燗酒を飲んで日本海の夕陽を眺めながら、課長と何を話したのだろう。よく覚えていない。課長も若輩の仕事ぶりのチェックを兼ねながら、雷鳥の食堂車に乗ることを楽しみにしていたのだろうと思う。
 さて、網走をめざすオホーツク1号は快調に雪原の中を走っている。
 やがて、左手に大きな岩山(瞰望岩(かんぼういわ))が見えて、遠軽に到着。10時52分。
 この駅で列車は向きが反対になる。スイッチバックの駅なのである。ただし、このスイッチバックは歴史的にここが名寄本線の始発駅で、真っすぐ方向に名寄へ伸びる線があったがその線が廃止されたので、スイッチバックだけが残ったという経緯がある。
3分停車する間に、乗客は自主的にほぼ全員が座席の向きを180度変えた。
 駅を出ると左へカーブし、あっという間に来た時の線路が見えなくなる。その先は視界が開け眺めがよくなる。
 安国(やすくに)通過。島式ホームの向こうに特急列車が待機していてすれ違う。
青空は見えないが、陽が差すようになる。
 生田原(いくたはら)は大きな町の駅で3番線に到着。ただし、列車を待つ人はいなかった。
 その先、山の中に入り込むがスピードは落ちない。
 しばらくして下り基調になり、常紋トンネルに入る。このトンネルは常紋峠を越えるための長さ507メートルの大正時代にできたトンネルであるが、労働者を「タコ」と呼んでタコ部屋と呼ばれる強制労働でできたと言われている。1968年(昭和43年)にあった地震でトンネルの壁面がはがれ、「人柱」とされた労働者らしい人骨が出たという場所である。駅間が長いことと急こう配のため、ここにスイッチバックの信号所が出来て、列車が待機した。長大な貨物列車であれば、それをけん引する機関車が2台となり、二重連ということで人気があった。さらにさかのぼれば、蒸気機関車D51)も重連でけん引しその吐き出す煙と迫力ある音を撮影及び録音するために鉄道ファンがこの信号所を目指して殺到し、仮乗車場(時刻表には載らない非公式な停車場)となったこともあるという。
 今日は、信号所へ分岐するポイントに雪を避ける立派なシェルターが残っているものの、分岐する線路はすでに外されていた。シェルターを出ても雪深い山あいの単調な景色だけであった。こうした賑わいは記録だけに残っているだけで、自分もその信号所に貨物列車が止まっているのを一度だけ見たことがあるだけで、何も語れることがないのは寂しい。そして、この信号所自体が来月(2017年3月)に正式に廃止になり、時間が経てば、右手の上にあると思われるその信号所跡も草に埋もれていくだけであろう。

                               (この項 続く)