のと鉄道輪島線跡探訪

  自分がいないと石川県の実家が空き家になるので、たまに横浜から出かけ数日実家で過ごしている。コロナだろうが、ガラガラの北陸新幹線で往復するだけなので関係ない。

 石川に生まれ育ってはいるが実家が金沢の近くのせいか余り能登のことは知らないというのが急に気になったので、気候が良くなった4月の春の日に車でひとり出かけることとした。

 2021年現在でも能登へは金沢駅から七尾駅までJR七尾線が伸び、その先関取遠藤の出身地穴水までがのと鉄道となっている。のと鉄道国鉄の非採算路線で廃止対象となった能登線(穴水-蛸島間)を受け継いで1987年に誕生した第三セクター鉄道である。

 のと鉄道はその後七尾から輪島の区間も承継し、七尾駅を起点として途中の穴水から北に向かう輪島線と能登線の終点珠洲市蛸島までの2系統の路線を持つ時代があったが、その後経営合理化のため2001年に輪島線を、2005年に能登線を廃止した。

 自分が高校生の頃(1972~74年)の金沢駅には0A番線と0B番線という二つの七尾線専用の頭端で相対式のホームが改札口すぐそばにあり、ディーゼルカーが常にブルンブルンとエンジンを鳴らしながら止まっていたり、急行の能登路号が頻繁に出入りしていた。北陸本線はすでに電化されていたが、七尾線は非電化でディーゼルカーを動かすため、線路のあるところが重油臭く常になにか水に濡れているような場所だった。

 自分は国鉄全線乗りつぶし国鉄民営化の3年前の1984年から目指し始めた。

 能登線は第三次対象の廃止路線だったので、自分の中での緊急度は高く国鉄時代の1987年までに往復したが、輪島線に初めて乗車したのはのと鉄道に承継されたあとの1996年8月だった。その後廃止の前日の2001年3月30日にも輪島まで列車に乗るために出かけた。

 よって、今回は3度目の輪島への旅となるが、記憶していることは少なくコンクリート造りの役所のような輪島駅の建物とどん詰まりの一本の右片ホームの線路ばかりである。当時は有名だった駅標で、まだ先に行けるぞとの心意気高き、次駅は「シベリア」というのが書かれたものが対面の盛土のホームにポツンと立っていた。

 今回は車なので小回りが利き見たいところを見たいだけ見ることができる。二回目の廃止寸前の旅では、お昼の12時34分に輪島に到着し42分の折り返し列車で戻っている。輪島駅にわずか8分の滞在時間で引き返すとは大変失礼なことであった。そのお詫び方々20年ぶりの訪問である。

 

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Webで見ることができる廃止前の輪島駅ホーム

 旧輪島駅の敷地は、道の駅「ぷらっと訪夢」という和風の建物になっていた。列車が来ていた頃は味気ないコンクリートの建物であったが、今は生まれ変わって黒塗りで時代劇に出てきそうな瓦屋根の建物に変わり、道に面する側にはバス停が並び地域の交通の要衝にもなっていることが良くわかった。

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 駅のホーム跡は、その建物の真ん中を抜けると左手にあった。

 当時は、駅側に実際のホームが1つだけあり、その反対側の土の土手のような使われなくなったホーム上に駅標が建っているだけの1面1線の寂しい駅だった。

 その土手のホーム(と同じでない可能性が高い)に屋根がつき立派にはなったが、長さは3メートルほどと列車1両も止まれない長さになり、駅の先は「シベリア」という荒唐無稽な記述だけが残る駅標がそのホームに残っていた。右を見ればΩ型に線路が曲がり行き止まり表示器も立って終着駅だったことだけは認識できる。

 列車が発車する方向には線路が少し敷いてあるがすぐにパネルで遮られているが、その線路幅にぴたりと合ったのと鉄道の車両がこちらに向いて走ってくる大きな写真があって、その当時の雰囲気が狭い空間で再現されていた。

 薄い板の壁であることは誰でもわかったが、その向こうに満開になっているピンクの八重桜が線路の真ん中に咲いているように見えて複雑な心境だった。

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 何か駅というものを理解できていない若手の役人が作ったように一瞬思ったが、地元で残そうとしていることだけでも感謝する方がいいかと思いなおした。

 翌日は白米千枚田を見た後、輪島線の廃線跡をたどった。

 輪島の次の能登市ノ瀬駅の遺構は全くなかったが、その先の能登三井に向かう線路の道床後ははっきりと残り、能登三井駅舎は原型が残され線路跡は分からなかったが、駅標が堂々とそびえていた。

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(この項おわり)