客車列車にもう一度

 無くなったけど、もう一度乗せてあげるというサービス精神が旺盛な鉄道会社があったら、まず乗りたいのが客車列車である。客車列車はそれだけでは動かない。それをけん引する機関車が必要になる。最近は、客車車両もそれをけん引する機関車も激減し、寂しい限りだ。最近、神戸の和田岬線の客車列車に乗った記憶を思い出したせいか、客車列車への思いに少し火が付いた。

 機関車は、別に蒸気機関車(SL)でなくても構わない(そうだったら、とても嬉しいけれど)。ディーゼル機関車でも電気機関車、どちらでも結構。ただし、客車列車にはこだわりがあって、前後2か所の扉は自動ドアでなく、手で開け閉めできるのがいい。扉を開ければデッキがオープンになっていて、駆け込み乗車もできる古き良き時代の車両が理想である。でも、昨今の鉄道会社は事故を回避したいだろうから、扉は自動でなければならないというのであれば、そのささやかな希望は取り下げるしかないが、客車列車を走らせるハードルは相当高い。

 高校通学時に石川県の松任から乗車した北陸本線の金沢までの各駅列車は、電気機関車に牽引された客車列車で、帰りに金沢駅ホームで時々動き出した列車と並走して飛び乗ったものである。別に事故なんて起きませんでしたが。

 時代は都会ではホームドアの時代。開発途上国にでも行かなければ、列車飛び乗りの体験は、もうできないだろう。

 1980年代に、その車両効率(終点での折り返しの人的手間軽減など)から、国鉄線・JRから客車列車がどんどん削減されていった。ホロコーストのように。

 1984年4月に廃線になった福島県の日中(にっちゅう)線(喜多方~熱塩間の国鉄線。本章以降の路線名も特に注釈しない限りすべて国鉄線)は、一日に朝夕の3往復だったがすべて機関車が2両か3両の客車列車を従え走っていた。貨物との混合列車の時もあったようだ。機関車の転換台のある終点の熱塩駅はいまでも保存されているが、のんびり客車列車が走る究極的なローカル線だった。電化されていないので、けん引はディーゼル機関車だった。その前はSLだった。そんな時代に戻れるなら戻ってみたい。

f:id:Noriire23:20200708220227j:plain

(日中線記念館・元日中線の終着熱塩駅:Wikipediaより)

 日中線の親線である磐越西線でも1985年ごろまでは長大な客車列車が走っていた。1984年の磐越西線の初乗車時、郡山で最終東北新幹線上り列車に接続する最終列車が、客車列車だった。車内に乗客は少なく、停車した駅では、全く物音が途絶え、夜のしじまとはこのことかと感じた。客車列車から連想することといえば、この異常にも感じるような静謐な瞬間である。車体の下にはエンジンがついておらず、機関車から離れた車両ではその振動も聞こえてこない。この世からあらゆる音がなくなったような静けさを感じることができた。

 山陰本線に824列車という普通客車列車があり、鉄道ファンに一時期有名だった。九州の門司を朝5時22分に発車し日本海に沿いはるばる京都の福知山23時51分到着まで18時間半余りの長い時間かけて走る列車があった。山陰線の客車列車は、磐越西線と比べて古ぼけた車両が多く、車内の壁面や背もたれの縁が木製で飴色にニスが塗り固められ、白熱灯の照明、油のしみ込んだ木の床と座り心地が場所によっては大きく当たりはずれのある時代ものの車両が走り続けていた。吉永小百合主演のNHKドラマの『夢千代日記』にもこの客車列車が物語の始まりのシーンに出てくる。トンネルを抜けると昔の余部鉄橋の映像が映る。この橋とデーゼル機関車にけん引された客車列車は、ドラマから離れてもひとつの宝物のような眺めであった。

(この項つづく)