客車列車にもう一度(つづき)

 (前項のつづき)

 九州では、筑豊本線の原田(はるだ)と桂川を結ぶ箇所と、廃止直前に乗った室木線(遠賀川-室木)にディーゼル機関車が引く客車列車が走っていた。原田から出る客車を牽引する筑豊本線ディーゼル機関車は、DD51という大型で、それが0番線という駅舎寄りの狭い場所に数両の客車を従えバックで入線してきたが、その姿を見てはワクワクした。さらに、1988年9月に赤字のため廃止となった筑豊本線の支線のJR上山田線(飯塚‐豊前川崎間25.9キロ)という炭鉱を結ぶ線でも客車列車が走っていた。

 この線は、3両程の客車を車両の入れ換えを助けるDE10形というという小型のディーゼル機関車が主に牽引していた。ここには1985年12月30日に訪れている。年末休みに訪問している。

 この客車列車に乗るために朝の8時11分にこの線の中心駅の上山田駅に到着した。ここ始発で、飯塚まで約30分掛けて客車列車が一日に4往復走っていた。 

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1985年2月の時刻表(日本交通公社刊)から抜粋

 今度の列車は、ちょうど折り返しの列車らしく機関車を前に付け替えるため、赤と緑の旗を持った駅員を先頭脇に乗せ、DEは一両ではずされて隣の側線をスイスイと身軽に動いて3両の客車の反対側に取りつく。その後、駅員が自転車に乗って列車の切り離しとポイントの切り替えを一人で行っている。ディーゼル機関車であるが、冬どきの冷え込んだ朝では客車の下からもうもうとスチームの白煙があがり、まるで蒸気機関車ででもそこにいるような景色であった。その始終を見てから乗り込む。客車は50系と呼ばれるエンジ色に塗られた自動ドアの客車だった(最前部のオハフ50 28に乗る)。方角的には、西に向かって走る。8時21分定刻発。発車する際にピーと警笛を鳴らすのがよい。が踏切があるたび、ピーピー警笛を鳴らすので少しうるさく感じるが、旅情はある。途中に漆生(うるしお)線と分岐する嘉穂信号場があり、一旦停止する。タブレットを交換しているはずが、それがよく見えず。次の大隈駅で交換した列車はDD51が牽引する客車列車だった。

 客車列車は80年代になると数がかなり減っていたが、時刻表で簡単に見分けることができた。それは列車番号という列車に固有の番号が時刻表の縦のラインの一番上に表示されているがその語尾にD(デーゼルカーの意味)やM(電車の意味)などのアルファベットがついていない数字だけの列車番号の列車が客車列車だった。時代は下って2020年4月時点では第三セクター長良川鉄道甘木鉄道などで数字だけの列車があるが、「全便レールバス」などの注釈があり、実態は客車列車ではなく列車番号の付け方が会社によって異なっている。

 客車列車カテゴリーの中でメジャーな分類として、ブルートレインがあるが、これはまた別のところで語りたい。

 客車列車は2020年時点で、JR九州の「ななつ星」のようなリゾート列車とSLやまぐち号などのSL列車、津軽鉄道のストーブ列車、並びにJR、大井川鉄道黒部峡谷列車、嵯峨観光鉄道や南阿蘇鉄道など第三セクタートロッコ列車で残っているだけである(規模は遊園地の列車のように小さいが、その他に和歌山県の元紀州鉱山のトロッコ列車、森林鉄道では、丸瀬布、赤沢、魚梁瀬などがあり、歴史の一端を見せてくれる)。

 その他、私鉄で過去に客車列車を最後まで所有していたのは、岡山県の同和鉱業片上鉄道[JR赤穂線の片上-柵原(やなはら):33.8キロ、1991年7月廃止]だった。

 ここは通常1両のディーゼルカーで運行されていた。その車両は年代物であったが、いつもきれいに整備されこの線だけに見られる前面の曲線が優しく癒し系の表情をしていた。これに加えて朝夕一本だけディーゼル機関車牽引の客車列車があった。客車は青く塗られ、寝台車は無いが、地元では「ブルートレイン」としても親しまれていた。列車の最後部には格子が少しあるデッキがあり、ヒトが乗っていなくても何か表情のある車両であった。ただし、自分は一度もこの「ブルートレイン」に乗ることが出来なかった。乗りたければこの沿線に一泊しないと乗れないような朝型・夜型のダイヤだった。この線自体がなぜか好きで好きで、当時の埼玉の自宅から休日に日帰りでこの線を乗りに何度か出かけた。線は廃止になったが、癒し系の車両を大切にしている地元の人たちが元の終着駅に近い山中に「柵原(やなはら)ふれあい鉱山公園」で、毎月一回展示運転をしているようである。

 その他、岐阜県の大垣から出る第三セクター樽見鉄道にも朝夕高校生の通学時の混雑緩和のために、開業直後の15年間客車列車が走っていた(ただし、2005年に廃止)。

 また、客車列車しかいない私鉄として北海道の三菱大夕張炭鉱大夕張線があったが、それについてはすでに別に一度書いたので割愛する。

 客車列車は自分にとってたまらない魅力を感じるのは、その列車の構成が分かりやすく、機関車がけん引するという鉄道の原型が残っており、加速が遅くてのんびり走る姿が懐かしく見えるからかもしれない。ただし、実体験できにくくなり、わかるヒトにしかこの魅力わかならいのかなと思うと少しさびしい。

(この項おわり)

客車列車にもう一度

 無くなったけど、もう一度乗せてあげるというサービス精神が旺盛な鉄道会社があったら、まず乗りたいのが客車列車である。客車列車はそれだけでは動かない。それをけん引する機関車が必要になる。最近は、客車車両もそれをけん引する機関車も激減し、寂しい限りだ。最近、神戸の和田岬線の客車列車に乗った記憶を思い出したせいか、客車列車への思いに少し火が付いた。

 機関車は、別に蒸気機関車(SL)でなくても構わない(そうだったら、とても嬉しいけれど)。ディーゼル機関車でも電気機関車、どちらでも結構。ただし、客車列車にはこだわりがあって、前後2か所の扉は自動ドアでなく、手で開け閉めできるのがいい。扉を開ければデッキがオープンになっていて、駆け込み乗車もできる古き良き時代の車両が理想である。でも、昨今の鉄道会社は事故を回避したいだろうから、扉は自動でなければならないというのであれば、そのささやかな希望は取り下げるしかないが、客車列車を走らせるハードルは相当高い。

 高校通学時に石川県の松任から乗車した北陸本線の金沢までの各駅列車は、電気機関車に牽引された客車列車で、帰りに金沢駅ホームで時々動き出した列車と並走して飛び乗ったものである。別に事故なんて起きませんでしたが。

 時代は都会ではホームドアの時代。開発途上国にでも行かなければ、列車飛び乗りの体験は、もうできないだろう。

 1980年代に、その車両効率(終点での折り返しの人的手間軽減など)から、国鉄線・JRから客車列車がどんどん削減されていった。ホロコーストのように。

 1984年4月に廃線になった福島県の日中(にっちゅう)線(喜多方~熱塩間の国鉄線。本章以降の路線名も特に注釈しない限りすべて国鉄線)は、一日に朝夕の3往復だったがすべて機関車が2両か3両の客車列車を従え走っていた。貨物との混合列車の時もあったようだ。機関車の転換台のある終点の熱塩駅はいまでも保存されているが、のんびり客車列車が走る究極的なローカル線だった。電化されていないので、けん引はディーゼル機関車だった。その前はSLだった。そんな時代に戻れるなら戻ってみたい。

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(日中線記念館・元日中線の終着熱塩駅:Wikipediaより)

 日中線の親線である磐越西線でも1985年ごろまでは長大な客車列車が走っていた。1984年の磐越西線の初乗車時、郡山で最終東北新幹線上り列車に接続する最終列車が、客車列車だった。車内に乗客は少なく、停車した駅では、全く物音が途絶え、夜のしじまとはこのことかと感じた。客車列車から連想することといえば、この異常にも感じるような静謐な瞬間である。車体の下にはエンジンがついておらず、機関車から離れた車両ではその振動も聞こえてこない。この世からあらゆる音がなくなったような静けさを感じることができた。

 山陰本線に824列車という普通客車列車があり、鉄道ファンに一時期有名だった。九州の門司を朝5時22分に発車し日本海に沿いはるばる京都の福知山23時51分到着まで18時間半余りの長い時間かけて走る列車があった。山陰線の客車列車は、磐越西線と比べて古ぼけた車両が多く、車内の壁面や背もたれの縁が木製で飴色にニスが塗り固められ、白熱灯の照明、油のしみ込んだ木の床と座り心地が場所によっては大きく当たりはずれのある時代ものの車両が走り続けていた。吉永小百合主演のNHKドラマの『夢千代日記』にもこの客車列車が物語の始まりのシーンに出てくる。トンネルを抜けると昔の余部鉄橋の映像が映る。この橋とデーゼル機関車にけん引された客車列車は、ドラマから離れてもひとつの宝物のような眺めであった。

(この項つづく)

JR和田岬線

 北海道の鉄道から一旦離れて、少し思い出鉄道について書いてみたい。

 JR和田岬線は、JR線の中で短さではナンバーワンの全長2.7キロの山陽本線の支線である。神戸の兵庫駅の海側にその専用地上ホームがあり、和田岬駅までを超低速で走る。途中駅はない。

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 この線は、終点の和田岬にある三菱重工造船所やその他の臨海地域の工場に通勤者を運ぶためだけの線と言ってもいいような線で、平日も朝夕がメインのダイヤで土曜と休日になるとほとんど走らない(2020年6月の時刻表では平日は朝夕26往復だが、日曜・休日は朝7時台の往復1本だけという極端なダイヤになっている)。
 今は電車になったが、自分が最初に乗った時(1987年4月)はディーゼル機関車が前と後ろに取りついた、「プッシュプル」という形態の客車列車を牽引する鉄道趣味をまことに刺激する列車であった。
 この客車車両はこの線だけに見られる特殊車両で、言葉で表現することが難しいしろものだった。
 もともとの車両からボックスになっていた座席を取りあえずすべて撤去して、出入口は進行方向右側だけ残し左側のドアはすべて撤去して板が打ちつけられてあった。そのかわり列車中央に一つ入り口(それも吊り扉で、倉庫の入り口っぽいの)が追加で出来て、片側3扉の車両となった。席はその入り口の正面列車の中ほど右側にロングシートの一部で6、7人分ぐらいが申し訳程度に設置されていた車両であった。吊革は下がっていたが、単に二列で下がっているだけで、手すりもないので乗り込んでも手が届く範囲に立つか定かでなく不安定である。が、スピードは20キロぐらいなので、車両が多少揺れても倒れることはないのだろう。まさにヒトが貨物のように扱われて、終点まで4分ほどなので辛抱できるだろうという意図が見え見えの列車であった。ユダヤ人を押しこめてアウシュビッツに運んだような貨物列車を想像させるような雰囲気を持っていた。2020年もこの線は存続しているが、1990年にこの客車列車は水色の古ぼけたディーゼルカー(キハ35形、キクハ35形)に置き換わり、ちょうど19年前の2001年7月1日にはお古の電車(モハ103系)に置き換わって、廃線になることなく歴史を刻んでいる。
 同じ2001年7月に神戸市営地下鉄海岸線に和田岬駅が出来て、この線の存続が心配されたが意外にも収益的には黒字路線のようで2015年の時刻表と比較すると本数が4本増えている。
 1992年から2003年の間、自分は神戸三宮駅近くの会社に勤めていた。1989年から関西に住んでいたので、客車列車からディーゼルカーへ、そして電車へという変遷をその都度見ることができて幸運だったと思う。

(この項おわり)

函館の路面電車には坂道が似合う

 廃線になってしまったローカル線の記憶ばかり書いていてもなんとなく気が滅入るので、今も走っている北海道の鉄道のことを書こうと思う。

 今回は路面電車に注目してみる。
 路面電車は全国で31残っていて、北海道には函館と札幌の2都市に残っている。札幌市交通局函館市企業局交通部であり、地元の自治体で運営されている。
 鉄道といえば、これ以外に地下鉄、モノレール、ケーブルカーなどがあるが、路面電車の独特の味わいは、スピードが遅いゆらゆらとした揺れである。
 これは、通常の電車にはない走り方をするからである。最初からスピードを上げようとは思っていない競争を諦めた走りに特徴がある。定年退職をしたわが身に、寄り添ってくるような佇まいに感じることがある。通常、停車場と停車場の間隔が狭いので、かっ飛ばすほどスピードを上げられないという事情もある。
 札幌の路面電車は、走るのが繁華街とその周辺なので都会の市民が利用する電車のイメージが強いが、函館のは3方向に延びて港町を巡る風通しのいい観光電車のイメージだ。同じ港町でも長崎の路面電車よりも開放感がある。
 JR函館駅前の道路に停車場があるので、そこから、3つの終点の湯の川、函館どつく前、谷地頭(やちがしら)に行くことができる。街がよくわかっていないが、函館どつく前と谷地頭方面が分岐する「十字街」の交差点が繁華街のような気がした。

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 また、湯の川温泉は湯量が豊富で無臭のつるりとしたいい湯で、泉質は松山の道後温泉に近く、そういえば道後温泉にも松山駅から路面電車が直通している。温泉に浸かりに路面電車に揺られてというのも楽しい気分になる。さらに函館と言えば幕末の戊辰戦争の戦場となったところであり、榎本武揚が占領した五稜郭のま近くまで湯の川行の電車が行くし、温泉駅の手前には競馬場があって週末には大勢の競馬ファンも利用するようである。
 だが、なんといっても一番の景色は、函館どつく前行が十字街を過ぎ左手に函館山の斜面が良く見えるようになるところにある。函館山の斜面の西向きの坂道から見る電車と湾の景色は個人的に函館市内で一番惹かれる景色である。函館山山頂からの夜景も素晴らしいが、電車の姿は小さくて見えない。
 ここは、十字街の次の末広町で電車を降りて山の斜面に向かって上り坂を歩かねばならない。急でもなく、それほどダラダラもしていない一直線の坂道が海に続き、そこを直角に電車が行ったり来たりしている。坂道の中でも観光のポスターによく登場する八幡坂が、道幅が適度に広く、昔の青函連絡船が止められている湾が眼下に見えるので景色としておもしろいロケーションである。
 なんだか観光案内みたいになってしまった。
 何度も函館には出かけているが、市電に乗りに行ったのは1994年と2008年の2回。
 最初に行った1994年5月15日の記録をたどってみよう。この時は3日間の北海道の鉄道乗りつぶし一人旅の最終日で、午後2時半発の大阪伊丹空港行き飛行機でその時の神戸の自宅に夕方に戻っている。長女が5歳、次女が3歳だったので妻に入念に事前許可を得て出かけたような気がする。

 ホテルを早朝にチェックアウトして、札幌駅6時48分発のスーパー北斗2号で函館に向かう。到着が定刻9時47分。天気予報では、これから天気が悪くなるというので荷物を駅のコインロッカーに預ける際に傘を出す。
 すぐに駅前の市電乗り場に向かう。
 青い1両(3001号車)の谷地頭行が来たので、ガヤガヤとにぎやかな修学旅行の高校生と一緒に乗り込む。日曜日なので修学旅行なのだろう。乗る際に整理券を取る。変なバーコードみたいな模様が入っている。時刻は10時7分。
 十字街で高校生も含めだいぶ降りてゆく。函館山に行くのだろう。左にカーブし終点谷地頭10時20分着。思ったより小さい街なのだ。谷地頭停留所は1両がどん詰まりで止まるスペースだけしかない。降りる時に一日乗車券(1000円)を買う。
 事前に調べてあった立待岬に行ってみる。函館山の東側斜面を少し登っていくといつの間にか墓地になる。そこを歩いて行くと石川啄木一族の墓があった。岬はその道を登ったところにあったが、海の眺めはいいものの函館山の日陰になっていて何となく暗いイメージだった。
 片道1キロほどだった。次の電車は10時47分発。何と1年前に登場した木造レトロ電車「函館ハイカラ號」が止まっている。運転席が完全に車内から分離しているので室内がやや狭く感じる。明治村で走っていたような気がする車両だ。向かい合わせの赤いベンチシートにインパクトがある。若い女性車掌が乗っているが、3つ目の十字街で函館どつく前に乗り換えるので、ゆっくりあれこれ見ている暇がない。
 十字街停留所で待っているとまもなく黄色い車体の一両の函館どつく行がやってくる。「どつく」と書いて「dokku」と読ませるのはなかなかである。関西人には読めないかもしれないと思う。
 北西に走るが、登り勾配である。次の末広町で大勢降りてゆく。
 その先も登り勾配で、アスファルトの路盤が随分と崩れてしまっていて車両の横揺れが大きくなった。10時59分終点函館どつく前到着。駅周辺には見るところがなさそうなので、すぐに引き返すことにした。11時00発(2回目に来た時には、少し歩いたら雄大な海が見え外人墓地もあった)。戻りは湯の川行でこのまま座っていればいいので車窓を眺める余裕がある。
 函館どつく前を出たところの線路を包み込むように敷いてあるアスファルトが無残にえぐられたようになっていて、線路が浮き上がらないのか心配になる。雪が降りそれが凍ったり解けたりして傷みつけたような感じである。
 函館駅前に到着して乗客が随分と多くなる。止まっている間に、古ぼけたネズミ色の東急バスが、リタイアし函館バスになって追い越していく。
 駅前で右折し、線路の路盤が丈夫そうな石となってえぐられたような箇所はなくなったものの電車の横揺れはあまり変わらない。えぐられているかどうかは関係ないみたいだ。
 松風町で道路に従い左折する。右方向にも路線(東雲線)があったが、1992年に廃止されている。電車はそのまま東北に延びる道の中央を走り、五稜郭公園前。11時28分。ここで右折して湯の川に向かうが、やはり五稜郭を一目見たいと思い下車する。公園まで往復すると12時になって、湯の川行がすぐにやって来る。 
 杉並町、柏木町と進むにつれて周囲が郊外の雰囲気となる。五稜郭公園前には、ダイエーやイマイマルイがあってヒトが集まり賑やかだった。
 深堀町の先に競馬場前という停留所がある。競馬場は右手にある。今日はレースがあるらしく駐車場に次から次に車が吸い込まれていき、道を歩くヒトの数も多い。函館方面行の停留所にたくさんのヒトが待っている。松葉づえのじいさんがヨロヨロしながら降りていく。
 駒場車庫前で運転手交代。右手に車庫が見える。湯の川温泉から先は左カーブして登り勾配になる。
 湯の川は道路の真ん中の行き止まりの終着駅。時刻は12時半だが、14時半発の飛行機のチェックインが気になり、近くの市バスのバス停に急ぐ。バスに乗り10分ほどで函館空港到着。電車の一日乗車券が使えて200円節約。
 空港の食堂で、ラムの鉄板焼と生ビールで短い函館の旅を打ち上げた。
 16時15分伊丹着。飛行機の中でぐっすりと眠ることができた。

(この項おわり)

北海道の硬券の入場券で語る鉄道趣味

 鉄道の旅で、周辺の景色や名物の絵が入った鉄道スタンプと硬券の入場券には必ず手を出す。
 硬券の入場券は、切符の自動販売機が導入されてから、絶滅の一途をたどっている。何かの記念イベントで発作的に発売されることがある程度である。
 硬券の入場券は、縦2.5センチ、横5.7センチの小さな紙片であるが、ペラペラの紙でなくしっかりとした厚紙になっている。そこに活版印刷らしい活字がぐっと紙に押し込まれ駅名が大きく表示されている。昔は、「高輪ゲートウェイ」みたいに長い駅名の駅はなく、潔い駅名だったので、硬券の入場券も潔い顔つきをしている。
 通常、切符の券面のバックには偽造防止のためか、細かな鉄道会社のロゴなどがピンクや水色などで薄く印刷されているが、硬券入場券にはその小細工はなく、白くなっているので余計に潔癖に見える。
 昔は改札を抜ける時に切符にハサミを入れるのがルールであった。客が差しだす切符を神業のごとく次から次にハサミを入れる駅員が都会の駅の改札には必ずいたものだ。そのハサミを入れた後が駅によって異なったり、時間によって異なったりした。入場券を買った後に「ハサミ入れますか?」と聞かれることがあり、自分はハサミ入れない主義で、買える駅で買い集めた。

 ローカル線は通常単線なので、駅で列車の行き違いが時に起こる。そこでできた待ち時間にソレーっと改札口に切符を買い求めるマニアと駆けっこをしたものだ。ただし、列車に乗るのが主目的なので、入場券を買うために列車を降りたりはしたことがなかったが、長年買い求めているとそれなりに溜まってくる。今も薬が入っていた缶に、かさばらないように並べるようにしてためている。
 入場券には日付が入るのでいつ乗ったかの記念になり、150円程度なので財布も傷まない。
 切符マニアではないので詳しくはないが、JRに分割される前でも、北海道、本州、四国、九州で、国鉄の入場券の記載の位置が多少異なっていた。また四国などは特有の字体を使っていて特徴があった。
 今でも、その土地に行った記念にどうしても欲しい時には自動販売機の印字の薄い紙の入場券を買うことがあるので、その缶は現役で役に立っている。
 手元にある北海道の硬券の入場券で主に路線の終点の切符を、地理的位置を少し意識して並べてみた。
 25枚の切符のうち、現存している駅は稚内根室と様似であり、様似はまもなく廃止になる。

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(この項おわり)

カモメ飛ぶ 江差線

 北海道の海に伸びる鉄道には、カモメが飛ぶ姿が似合う。
 江差線は線区としては、函館のとなり駅の五稜郭から西に進み木古内(きこない)を経由し北西に延びて江差を終着とする79.9キロのローカル線であった。列車はすべて函館が始発であった。木古内江差の間は松前半島を横断し、終点江差の手前では左窓いっぱいに日本海が見えた。
 赤字のため北海道新幹線が開通する約二年前の2014年5月12日に木古内江差間の42.1キロが廃止となり、新幹線の開通と同時に五稜郭木古内間は第三セクター道南いさりび鉄道となって、江差線の名称が消えた。
 江差は、アイヌ語で「岬」という意味であるようで、冬季は大陸から季節風が吹きつけるさいはての港町だが、江戸~明治にかけては北前船の要衝の町として栄えた。列車は、木古内から江差に向かうと冬は雪深い峠を越えて日本海が見え出すと同時に、左窓の沖あいに浮かぶ鷗島(かもめじま)が見えて、まさにカモメが飛ぶ景色が目の前に現れて終着江差駅に到着するという演出が見られるローカル線であった。バックに地元の民謡江差追分でも聞こえてくれば涙もろいヒトであれば感無量となるかもしれない。
 この木古内江差区間は二度乗りに来ている。初回の旅(1985年11月)ではこのような景色のドラマが待っているとも思わず、またその時は妻と二人旅でそれほど感動しなかったが、2008年2月に一人で雪深い木古内から江差まで二度目の乗車した時にはその車窓に完全にノックアウトされた。ただ、記憶なので20年以上前に感動があったとしても忘れてしまえば何とも書きようがない。

 2008(平成20)年2月17日日曜日である。天候はまずまず。
 前日は一度泊まりたかった函館の湯の川温泉に宿泊し、函館7時8分発の江差行に乗る。その次の列車が10時12分発なので、せわしないが早起きして朝食も取らずホテルをチェックアウトする。気温は-3.4℃だがそれほど寒いと感じない。温泉の効果だろうか。駅でサンドイッチと朝刊を買って1番線に止まっている1両のディーゼルカー(キハ40 1809)に乗り込む。座って新聞を読んでいると昨日函館本線森駅から砂原線まわりの列車で函館まで一緒だった親子連れが乗ってくる。効率よく列車に乗ろうとすると、北海道のローカル線のように本数が限られていると同じ列車に同じヒトと出会うのは仕方がないことである。向こうも江差まで行くのだろう。こちらに気づいたので同じ人間が座っていると思っていることだろう。
 定刻発。五稜郭を出ると札幌方面の線路と左に分かれて、七重浜。島式ホーム。向かい側に長大な貨物列車が停車している。
 その先、清川口、左片ホーム。ホームの幅が広く、駅舎から下がっているツララが長い。その先から水滴が落ちていないので、相変わらず氷点下のようだ。
 人家が増えて上磯(かみいそ)到着。プラットフォームが右片ホームと島式ホームと3本あり、たくさん降りていき、一人乗ってくる。
 左手の海の向こう意外と近くに函館山が見える。と、思っているうちに列車は山あいに入って行き、トンネルを出ると左窓に海が見えその向こうに函館山が見える。トンネルを出るたびに雪が深くなってきている。
 茂辺地、島式ホーム。駅はオーソドックスな平屋の木造。積雪が30センチぐらいになる。
 その先、海を見晴るかす場所に出る。陽も差してきた。函館山が左手後方に移動し、その先に下北半島の陰も見える。やがて右手にうっすらと津軽半島が見え出す。
 渡島当別は相対式ホーム。列車すれ違い。その後、意識が飛ぶ。
 気づいたら木古内だった。
 3本ある島式ホームの一番北寄りから列車が発車するところだった。
 ポイントを渡り、海峡線が離れて江差線が右に分岐する。
 すぐに渡島鶴岡右片ホーム。新雪に埋もれているようになってきている。
 杉林の木に重そうに雪が積もり沢山のクリスマスツリーのようになっている。天候は回復傾向。
 左手にコンクリート製のお寺が見える。
 吉堀も右片ホーム。駅舎は貨物列車の車掌室の二次利用の通称ダルマ駅だ。雪が50センチぐらいになり、さらに山の中をさまよい、神明は左片ホーム。ホームは木製のようだ。すっぽりと駅全体が雪の中に埋もれているようだ。それでもおばさんが一人乗ってくる。
 湯ノ岱(ゆのたい)島式ホームで、キハ40(798)と交換。6、7人が乗ってきて車内が活気づく。黄色いラッセル車が見え駅員がいる。
 左手に蛇行する天の川が寄り添っている。宮越(みやこし)、桂岡と走って左手の景色が開ける。が、雲が低く垂れこめて雪が降りそうな気配になる。
 中須田は左片ホーム。ダルマ駅舎が見える。風よけのシールドが立っている。
 上ノ国を出ると、左手に日本海がぱあっと広がる。波は荒く、水は黒々とした色だ。海と線路の間にフェンスが立つ。それくらい風が強いのだろう。
 列車はグーっと登り勾配を最後の力を振り絞るように駆け上がり、定刻9時19分江差到着。
 左片ホーム1本だけのシンプルさ。23年前に来た記憶がよみがえる。そのホームが凍っていてツルっとすべった。が、転ばなかった。
 10時8分にこの列車が折り返すので、その間に少し江差の街を見たいと思った。が、積雪があり、それが凍っているので徒歩をあきらめタクシーで移動する。旧中村家という海運問屋の中を見学させてもらう。タクシーは坂道を上ったり下りたりする。港町には坂道がある。長崎も神戸も横浜も函館も。

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(この項おわり)

日高本線と富内線のモンゼツ旅の記録(その4)

(前項のつづき)
 さて、2017年の日高本線再訪の旅の記録を書くとしよう。今度は一人旅だった。

 今回(2017年2月15日)もえりも岬そばの宿に宿泊したが、前の宿とは違う工事関係者が長期滞在するような労働者の汗臭い感じの宿だった。出てくる食べ物も質より量だった。
 まだ夜の明けきらない5時過ぎに、えりも岬灯台を間近に見に行く。昨日バスで広尾から走った時にスパっスパっと緑がかった白い光があるサイクルで暗闇を切り取るように回っているのが見えて頑張ってるなと思った。
 岬には誰もいない。実物の灯台はなにか模型に近い思ったよりこぢんまりとして背の低い建物だった。それでも、東の空が徐々に明るくなっている中でも健気に光を放ち続けていた。
 岬の先は岩が海の中へ、先に行けば行くほど小さく点々と伸びてまさに地の果てという景色だった。これは記憶に残っている景色だった。
 宿に戻り朝食をとったあと、様似行のバスのバス停へ向かう。昨夜降りたところだが暗かったので付近の様子が分からなかったが、ここからも日高山脈が冠雪し、快晴の空にその稜線が美しい。快晴である。寒いが気持ちのよい朝になった。バスは7時45分ごろにやってきた。偶然かもしれないが前回と同じ時刻である。女子高生が一人乗っている。自分は運転手の左脇の眺めの良い一人掛けに座る。
 バスからもえりも岬灯台が見えた。すでに灯室の中のレンズの灯は消え、回っていなかった。
 女子高生は「えりも高校前」で降りていく。長い坂道を登らないとたどり着けない学校のようだ。校庭が広々としている。2月にしては日差しが強い。雪山の景色が近づく。
 市街地に入り、旅館が目に付く。港が近そうだ。灯台公園なるものもある。その広場の中央にあるのは、えりも岬灯台ではなくなぜか根室のノサップ岬灯台みたいなミニチュアだった。バス停「えりも駅」はコンビニのとなりにあり、道路から左に入ってわざわざ入り込む。
 街を抜けると海に近づく。水がとても澄んでいる。岩海苔がへばりついている。トンネルを抜けるとまた海の景色が楽しめる。それを繰り返すうちに様似の街に入り、様似駅前8時37分着。約1時間のバス旅だったが、晴天で山と海の景色が楽しめて退屈しなかった。
 様似駅の駅舎は広い敷地のなかにぽつんと残っていて、観光案内所と所帯を二分していた。駅前にはタクシーが1台止まっていた。駅の中の窓口にはおばさんが座っている。駅の改札を通り駅標などの写真を撮る。
 駅には左片ホームの1本だけのホームがあり、その先にもう1本の線路があり、それが激しくさび付いていた。
 9時2分発の日高本線代行バス静内行きは8時55分ころにやってきた。
 自分の他には、おばあさん1人、青年1人の3人で出発。一番前の席は荷物置き場となっていたのでその後ろで前方が良く見える二人掛けの席に座る。本線は海に面した左手にみえるはずだから、こちら側に座らなければならない。

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 発車のあと、国道236号線・235号線をメインに駅に立ち寄るようにしてバスが走った。
 バスの利用客は多くない。ほとんど乗ってこない。
 静内の一つ手前の東静内から先で、線路が海側になり一直線の箇所では、線路の下の土が流されてしまい線路が宙吊りになったままのところがあった。海抜3メートルぐらいの渚のすぐそばの場所だ。この区間は1933年に開通しているが、2015年1月の高潮で被害にあうまでに無事だったことの方が不思議なくらいだ。
 静内川を渡り、静内駅に定刻10時56分到着。ここでバスを乗り換える。
静内駅は海を背にして駅前広場に何台もタクシーが待っている都会の駅だった。
駅の中には蕎麦屋が暖簾を掲げ、暖かそうな湯気が上がっていた。ヒトもたくさん行き交い、あとは列車がやってくれば普通の駅のように見えた。
 駅の中をうろうろしているうちに次のバスの発車時刻が迫ってきたので、蕎麦屋のカウンターにあった稲荷ずしとおにぎりの詰め合わせを購入。次のバスは鵡川着が12時55分着で、接続の苫小牧行の列車への乗り継ぎ時間は7分余り。それに乗り継いで苫小牧着が13時33分なので、途中で空腹になりそうである。
 バスが定刻11時11分に少しの乗客を乗せ静内駅前を発車する。海沿いを線路とともに走る。
 国道235号線が内陸に向かおうとしたところで、バスは左に折れて新冠(にいかっぷ)駅に到着。駅舎は地域の公民館のようになっていた。時間調整かしばらく待ってバスが動き出す。駅のホームは左片ホームだった。
 その二つ先大狩部(おおかりべ)駅に差しかかるあたりで、本線の被害がどんどんひどくなっていくのが車窓から見えた。絶望的である。ついには線路が宙吊りになった。どこから手を付けたらよいかわからない状態になった。
 清畠(きよはた)手前では、コンクリートの防波堤があるにも関わらず、線路の路盤が消失して線路がところどころ浮いていた。
 その先の豊郷の手前では、線路すらも流されて何もかもなくなってしまっていた。
 一見、一直線に見える海岸線がこの辺りで地形的に見て少し内側に湾状に膨らんでいるので被害がひどくなったのだろう。
 日高門別に差し掛かる手前で、道路は線路から離れ小高い丘を越える。ちょうどその尾根のあたりの左手にちゃんとしたコンクリート製の大きな灯台が立っていた。門別灯台だ。線路は海側に敷かれているので列車からではこの灯台は見えないだろうから、ちょっと得した気持ちになる。
 しばらくして左折し、日高門別駅前に到着。駅舎はペンキ塗りたての教会のような建物。駅のホームは島式のようである。
 国道から見て線路はその先富川まで安全なところを走る。
 富川の駅前に行くためにまたまたバスは大回りしてコの字に走って左片ホームの駅に近づく。富川駅には上越線土合駅のような三角屋根が特徴の木造駅舎あった。ただし、真っ黒に塗られている。若い女性が一人乗車してくる。
 バスは広い道を走るようになり、視界が良くなって右手に門別競馬場が見える。鵡川に近づいたので静内で買った稲荷ずしを開けてほおばる。
 汐見駅は左片ホーム。あたりは葦の原。
 鵡川12時55分ごろに到着。駅にちょうど苫小牧からの列車が到着して乗客を降ろしているところだった。思ったよりヒトが多い。
 次の13時2分発の苫小牧行の列車は2番線の1両のキハ40(353)。ホームは千鳥になっていて(駅舎側のホームの先端が、向かい側2番線ホームの後方の端になっている)、側線が何本もある。
 5人ほど乗せて発車。
 浜田原左片ホーム。牛がエサの上に座り込み口をもぐもぐさせてこちらを見ている。
浜厚真も左片ホーム。貨物列車の車掌室を再利用した駅舎(ダルマ駅舎)が白塗りになっている。
 勇払を過ぎ、やがて複線の室蘭本線が右手から合流し、苫小牧13時33分着。

 何か気になっていた勤めを果たしたような気分になった。

(この項おわり)