日高本線と富内線のモンゼツ旅の記録(その2)

(前項のつづき)

富内線の最初で最後の乗車記録】
 昭和60(1985)年9月29日(日)の早朝に埼玉県与野市(現さいたま市)の自宅を出て、京浜東北線とモノレールで羽田空港に向かいANAの札幌行き始発で千歳空港に9時過ぎに到着。苫小牧11時23分発の富内線日高町行列車に乗るために千歳空港(現南千歳)駅10時2分発の苫小牧行の各駅停車に乗る。千歳空港から日高町までは片道で2,300円。今回は明日夕方に東京に戻って来るので、周遊券は買わない。
 列車は3両編成のベンガラ色のディーゼルカーだが、飛行機から早くも黄色く色づいて見えた木々の間を快調に飛ばす。美々にて特急列車に抜かれる。10時40分苫小牧駅着。
 日高町行は4番線の1両のベンガラ色のディーゼルカーだ。当時は、まだキハ22系という古い型のディーゼルカーが残っていて、廃線予定線で最後のお勤めのように使われていた。これもそのようだった(キハ22 37)。駅でそばを食べて乗り込む。空いているので4人掛けのボックスシートを独り占めして足を投げ出して車窓を眺める。定刻11時23分発。
 列車は室蘭本線と並行して先ほど乗ってきた千歳線に向かって走り出す。工場地帯があい何が何だかという間に次の勇払(ゆうふつ)着。とまこまいといい、ゆうふつといい、アイヌ語の駅名が続くと北海道に来た実感がする。勇払では降りていくヒトが少し。駅長が待っていてタブレット交換。

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 勇払を過ぎるとそれまでの工場の敷地のようなところから、原野というかススキやヨシが生い茂る湿地の荒野のようなところを走り出す。右手に並行して道路が走り、その向こうに海が見え隠れしている。左手は背の低い雑木が茂り視界はよくない。右手から入る陽の光が眩しい。製紙工場のような煙突から白い煙の見え、橋を渡り浜厚真(はまあつま)着。タブレット交換。
 鵡川(むかわ)から先クイっと左に折れるようにカーブして本線と決別する。いよいよ富内線に入った。
 その先は、駅名と同じ鵡川という川に沿って富内まで走る。左手に山すそが迫り、川に忠実に沿って列車は川を見下ろしつつくねくねと走る。スピードは全然あがらない。水田が広がっていてちょうど刈り入れの季節となっていた。左手にサンゴ草のような赤い草の小さな群れが見え、それをうす紫の小菊のような花が取り囲んでいる。どちらの花の名前もわからない。何というのだろう。
 そのうす紫の花が旭岡では見事に群生していた。ここでもタブレット交換。信号機が腕木信号機になった。駅長が信号テコレバーにすがるようにして、信号機を操作している。
 栄までは崖っぷちになると列車はスピードを落として走る。ゆっくり、ゆっくりと。うららかな陽気で穂別までうつらうつらする。今日は早起きしたので眠気に負けそうになる。眺めも単調だし、列車もゆっくり走り適度に揺れてくる。
 川や山の陽に映える緑、それに澄んだ色の空は昨年(1984年)10月に乗った足尾線と雰囲気が似ている。
 この線名の由来になっている富内は小さな駅。列車交換で6分停車。駅長はいるが、入場券はなかった。駅前にみるところもなくさみしい場所だった。交換列車もキハ22(76)で、それを見送ってから13時19分出発。すぐに鵡川を渡り、登り勾配となる。
右手に道路が迫り、同じようなベンガラ色の軽4のトラックに手を振った子供に応え、運転手も手を振っているが、ちょっと危なっかしい。
 列車はあえぐように登り勾配を行き、やがてこの線で初めての長いトンネルに入る。途中で下りとなり、トンネル内で峠を越えたようだ。
 振内(ふれない)-仁世宇(にせう)間と仁世宇-岩知志(いわちし)間で深い谷をつくる川を赤い鉄橋で渡る。なぜかどこかで見たような景色で不思議な気持ちになる。
 14時17分終点日高町に到着。線路はそのまま先に延びていけるのに突然終着にすると決めたような駅だった。この列車の折り返しは16時6分なので何をして待ったらいいのか途方に暮れるようなダイヤである。他の3本の列車も同じようなパターンで折り返し、待ち時間の長さで比較するとまだこの列車はましな部類である。取りあえず駅の窓口で硬券の入場券を購入し、Discover Japan時代の古いスタンプを手帳に押す。

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 町のメインストリートと思しき通りに人影はなく、日曜日のせいかどの店も閉まっていた。が、思わず深呼吸したくなるようにともかく空気が清々しく澄んでいるのは驚きだった。空気が汚れようがない土地なのであろうが。その後いろいろな土地に旅したが、日高町の空気の清らかさに勝る土地はなく記憶に残った。
 それ以外に印象に残ったのは、駅長と話ができたことだった。
 街中をしばし徘徊し、3時過ぎに駅に戻り帰りの切符(札沼線の終点新十津川まで4,400円+苫小牧から札幌までの特急券自由席1,000円)を買ったとき、暇そうにしていた駅長から日高町や駅のことを聞くことができた。
 町の人口は約3,000人。今年の売り上げはもう140万もオーバーしている。切符の出前をしているせいだと思う。この線は高校生が主に利用している。それ以外のヒトはあまり利用しない。廃止になるとバスがないので高校生は大変なことになる。
 この辺にこんな大きな駅はない。信号機の片方が「占冠方」とされているので、石勝線まで伸びる予定だったのだろう。
 駅ができたのは昭和39年。駅舎が広いので掃除も大変だし、冬場は10時ぐらいになっても部屋が暖まらない。部屋に仕切りをしたいが、それなら灯油を燃やすなと言われる…
 と半分愚痴みたいな会話だった。
 戻りは数名で発車。
 雲が低くなり空が暗くなったので、早々と車内に明かりが点く。蛍光灯でなく白熱灯が白いカバーの中でぼんやりとオレンジ色に光っている。こういうのも悪くない。いつかお茶の水大学の文化祭に行ったとき、美人の学生が琴を弾くのを聴いた和室がこのような雰囲気だったことを思い出す。
 苫小牧で買って残っていたおにぎりとさつま揚げをアテにワンカップを開ける。
 往きに車窓を見ているので、余裕でくつろげる。秋が深まりゆく景色と渓谷の水の流れが美しい。退屈ではあるがまた機会があれば来たいと思える場所に見えてきた。
富内で列車のすれ違い。5人ほど乗ってくる。時刻がちょうど17時で「夕焼け小焼け」のメロディーが町に流れている。
 夕陽が黄色く山を照らし、スポットライトのようになって木々が黄色や赤く見えて美しい。
 17時40分に栄を過ぎたところで外は薄暗く暮れてしまい、車内の灯りが窓に映り、窓を閉めたまま車外の景色を見ることがほとんどできなくなった。鵡川だけが灰色に鈍く光っているのがわかる。
 春日に18時1分着。空に満月が浮かんでいるのが見えた。見晴らしの良い場所で、出来立てのホットケーキのように地平線からそう高くないところに止まっている。だが、それも一瞬で雲に隠れてしまった。
 が、鵡川駅の手前で再び月に出会う。鵡川18時11分3番線着。ここで日高本線様似からの列車と合体する。そう考えると、日高町の折り返しの待ち時間というのは鵡川で車両を連結するために時間調整をしたみたいに思える。が、そこまでして列車を連結する必要があるのだろうか。鵡川のこの列車の前の日高本線の列車は15時18分発の急行えりも3号で、これでも3時間ぶりの列車なのだ。日高町で2時間近くも待たなくても、速やかに折り返してその間に鵡川から苫小牧まで行く列車になるならその方がいいのにと思う。一方、運転手を鵡川で一人減らすことができるメリットなどが優先されているのかもしれない。35年前の廃止線の列車ダイヤに今さら疑問を持ってもしかたないのだけれど。
 日高本線からの列車は1番線に停車している2両編成であった(なぜ、富内線の列車が直接1番線に入線しなかったのかは、よくわからない)。車内でおかしな歌をずっと一人で口ずさむおじさんがいて、避難して1番線の車両に移動した。こちらもキハ22(235)であったが天井の照明は蛍光灯が煌々と明るかった。後ろに富内線の車両をつないで18時17分鵡川発。苫小牧に18時51分着。
 1本の線に乗車するのに往復約7時間半かかったことになる。
 19時28分苫小牧発の特急ライラックに乗り換え札幌に20時25分着。
 駅を出ると名月が中空に浮かんでいた。

 

(この項つづく)

日高本線と富内線のモンゼツ旅の記録(その1)

 日高本線は、思いを遂げることなく、まもなく大部分が消滅する運命にある。
 本線は、北海道の日高山脈の西南の太平洋沿いを苫小牧から様似(さまに)に至る全長146.5キロの長大なローカル線である。東海道線ならば、東京から東へ静岡県の吉原あたりまでの距離で、神戸から東に行くならばほぼ米原までの距離である。その本線という名に恥じない線の先端部[鵡川(むかわ)から様似までの116キロ]が間もなく廃止されバス路線となる。実際には2015年1月に襲った猛烈な高波で路盤の土砂が流失し、この部分はすでに代行バスによる運行となりそれ以降列車は一度も走っていない。さらに2016年に台風によって被害は拡大し、地元とJR北海道との協議が重ねられたものの、JR北海道の経営自体が危機を迎えてしまい、すでに沿線の町はこの部分の廃止とバス転換に合意している。
 ただ、この線が終点の様似まで建設された昭和12(1937)年当時は、さらに海岸線を南下してえりも岬近くを経由し広尾線(帯広-広尾、1987年2月廃止)の終着駅広尾駅まで繋げる予定があった。世の中が変わったせいもあるが、もともとの思いは太平洋岸に沿い苫小牧から帯広までを繫ぐ壮大な夢の路線であった。それが約80年後に襲ってきた高波で路盤がえぐられ線路が宙づりになり廃止に追い込まれることとなった。
 また、支線として1986年10月までは、本線の途中駅の鵡川から終着駅日高町に伸びる富内(とみうち)線という片道82.5キロの行き止まりのローカル線が走っていた。
 富内線は、1985年当時第2次廃止対象(第2次特定地方交通線)とされていたため、乗車機会が限られる勤め人の自分としてはこの支線から日高本線に乗車せざるを得なかった。この鉄道趣味(全国乗りつぶし)に目覚めたのは、1984年8月で突然だった。雷に打たれたという表現が大げさでないほど、廃止予定線をできる限り片っ端から乗りつぶさないといけないという思いに取りつかれた。乗りたくても線路がどんどん消滅していくという状況で、焦りを感じながら全国を飛び回っていた。また、広尾線も第2次廃止対象路線だったので、富内線の乗車直後に再び北海道に出直して帯広から広尾線に初乗車し、そのままえりも岬を経由して様似から苫小牧へ日高本線を通しで乗車している。しかし、様似から苫小牧の間は急行で2時間40分だが、各駅停車だと約3時間半~50分かかった。ただし、本線の方は海沿いを走り、時に渚近くを走るので車窓は退屈しないと思った(乗車したら、退屈でモンゼツした)。ただし、右窓からはサラブレッドなどの競走馬を飼育する牧場があり、この線特有ののどかな風景も楽しめた。
 一方、富内線の車窓は単調な山と谷だけの風景でなんとも退屈で身もだえする路線であった。終点の日高町まで行く列車はすべて各駅停車で、1日4本しかなく、苫小牧から約3時間、鵡川からは約2時間20分かかり、なおかつすぐに引き返さないので、恐らく何も観光できるところのない日高町で最低2時間ほど時間をつぶさねばならないという“苦行”を覚悟しなければならなかった。

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(写真は、JTB時刻表1985年2月号)

 今回このブログに本線の鉄道日記を掲載するにあたり、実際の富内線のルートを見てみると日高山脈の北部分をぐにゃぐにゃさまようような凄いローカル線だったことが分かった。

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 終点の日高町からその先石勝線の占冠(しむかっぷ)まで富内線を延長する計画があった。しかし、なぜ?と思うような何もない山岳地帯である。スイスのように鉄道を観光の基盤の一つに考えるようなら、その先の展開はあったかもしれないけれど、あいにくこの辺にマッターホルンはない。恐らく地元の政治家か有力者の思い付きのような路線だったようにみえる。
 前置きが長くなったが、まず富内線の乗車記を最初にお示ししその後に日高本線の乗車記録を書いてみたい。最初に申し上げると終着駅日高町には本当何もなかった。。。

(この項つづく)

田原町駅での福井鉄道とえちぜん鉄道の渡り線乗車(その2)

(前項のつづき)

 テープの案内がホームに流れ、9時56分ごろに3両編成の低床のモダンな赤い路面電車が入線してきた。福井鉄道の新型車両のフクラムだ。

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(写真は、田原町駅の2番線ホーム。ホームの先に延びるのが“渡り線”で、その先えちぜん鉄道につながる)


 福井鉄道のフクラムは、走り出して4年目なので真新しくオシャレなデザインだ。富山のセントラムポートラムも、富山県高岡市を走る万葉線路面電車アイトラム)も低床式でいずれも従来の路面電車のイメージを一新する次世代型車両である。広島電鉄グリーンムーバーがその嚆矢(こうし)であったと思う。
 低床式の路面電車は、鉄道が今後も生き残っていく一つの手段かなと思う。
 理由は、駅での階段の上り下りが少なくて済むので、高齢者、身体障害者、ベビーカーを持つ人達にとっては利用しやすい交通手段であることだ。また、熊本電気鉄道などで実施しているが、自転車を乗せることができる路面電車がある。オランダのアムステルダムに1998年に行った時には市内を走る路面電車に普通に自転車と一緒に乗ってくるヒトがいて、びっくりしたことがある。海外では日本ほどは電車が混まないのでできると思ったが、日本でも週末や平日の朝夕を除けば地方鉄道で可能だろう。ただし、その低床式車両を新しく製造すること自体が零細な鉄道会社の一つのハードルかもしれないが、地球にやさしい乗り物であることは間違いないだろう。
 この田原町からえちぜん鉄道三国港方面にこの低床式車両を通そうとした場合に、それまでの高床式電車のホームは使えない。新しく低床式ホームを建造することが必要になる。どう克服したのかが興味津々である。えちぜん鉄道では、この低床式車両が走る鷲塚針原までの区間を「フェニックス田原町ライン」と呼んでいた。
 この三国芦原線は当然単線である。ワンマン運転で運転手が福井鉄道からえちぜん鉄道に交代し、9時58分に定刻田原町発車。わずかばかりの渡り線を走りゴトゴトとポイントを通過してえちぜん鉄道に入り込む。

 

 次の福大前西福井は相対ホームで列車がすれ違いできるようになっている。駅全体がショッピングモールの下にあり、ドームの中にいるようだ。まずは高床式ホームが座っている胸の高さで現れ、その先に低床式ホームが現れて停車。と、右側にすれ違う黄色の低床式車両が見えた。これはえちぜん鉄道が所有する低床式車両キーボ(ki-bo)2両編成だ。あっという間に出ていったので、写真がうまく取れない。

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 その次の日華化学前は右片ホームで、ここも同じく高床式ホームの先に低床式ホームがある。乗り降りなし。列車はゆらゆら走る。次の八ツ島も右片ホームで、同じところに低床式ホームがあり停車。都会の真ん中ではないにしろ、高床式ホームの先に低床式ホームが設置できるスペースがあったことは幸運なことであったろう。
 新田塚は、もともと高床式電車で島式ホーム(一つのホームの両側に線路がある構造)だったので、なんとその外側に低床式ホームが相対ホームで出来ていた。右には胸あたりまでホームの地面が迫る景色は面白い体験だ。

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 列車は菜の花が河原に咲く九頭竜川をトラス橋で渡る。少し行くと右片ホームの中角駅があるが、通過。ここには低床式ホームが設置されなかった。乗降客が少ないのだろう。
 田園地帯を走り、ホームセンターを右手に見ながら鷲塚針原10時9分定刻着。
 ここには、低床式専用ホームが3番線として設置されていて、その先が行き止まりとなっていた。
 島式ホームに待機していた福井行の電車がすぐに発車していく。

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 このあと、10時48分発の福井行電車で戻る予定。その前にこのフクラムは10時39分に発車していった。
 その待ち時間にスマホを見ていると昨日志村けんコロナウイルス感染による肺炎で亡くなったとのニュースが飛び込んできた。
 1989年長女が生まれる前で大阪で単身赴任していた当時、寝台急行銀河で東京に向かい、翌朝小田原で列車を降りた際に美空ひばりの訃報をラジオで聞いたことを思い出した。

 

 調べてみると、フェニックス田原町ラインで乗客が増えたのは直通で福井方面からえちぜん鉄道に乗り越す学生が増えたことが原因のようだ。福大前西福井の周辺に福井大学福井商業、藤島高校などの学校があるので電車を利用する学生は多いことだろう。
 えちぜん鉄道の前の会社であった京福電鉄には悲しい歴史がある。
 えちぜん鉄道は2002年にできた第三セクター鉄道で歴史は比較的浅い。が、その前身の京福電鉄時代に二度の列車の正面衝突事故を2000年12月と2001年6月に起こしてしまった。続けて2回はないだろうと思った記憶がある。ちょっと乗りに行けないなと思った記憶もある。京福電鉄は京都に本社を置く鉄道会社で、1942年に福井にあった鉄道を越前本線として統合した。これらの事故により全線で列車運行が停止し、最終的には廃止届を出すこととなり、京福電鉄は福井から撤退した。しかしながら、鉄道が冬場の豪雪に強い交通手段であるため地域の足としての強い要望があり、地元の福井市勝山市などが第三セクター方式でえちぜん鉄道として経営を2002年に復活させ、2003年10月に全線で営業運転を再開させたという経緯がある。
 また、えちぜん鉄道には、「アテンダント」という若い女性の車掌さんが乗客のサポートするという珍しいサービスがある。それを見るために2008年5月に乗りに来たことがあった。
 地方鉄道にしては、いろいろな試みをして乗客を呼ぼうという努力が実際のサービスで実行されているということは本当に素晴らしいことである。
 一時廃止にまでなった路線がよみがえり、フェニックス田原町ラインもできた。そこにキーボ(希望)という黄色い次世代型低床式路面電車が走っているのである。

(この項終わり)

田原町駅での福井鉄道とえちぜん鉄道の渡り線乗車(その1)

 富山駅路面電車の渡り線に乗った翌週の3月30日に福井市内の路面電車の渡り線に初めて乗車した。
 渡り線とは、異なる鉄道路線又は異なる鉄道会社の路線が相互に乗り入れできるようにするために敷設された短い(時には少し長い)線路区間のことである。日本全国のJRと私鉄の鉄道完乗後もこうした重箱の隅的な区間部分も落穂拾いをするような気持ちで乗ってきた。どちらかというと会社も顧客志向を考え、莫大な建築費の必要な新線よりも既存の線のさらなる利便性向上を目指し、直通運転をめざし渡り線を敷設しようと考えているようで増えてきているようである。
 自分は家庭の都合で横浜の自宅を離れ、石川県の実家でたまたま暮らしている。また、コロナウイルス感染予防のために横浜に戻らず北陸にとどまっている。
 ただ、二週続けて新しい渡り線に乗れるとは、調子づいているなと感じた。
 また、石川県の隣県にあるのもご縁だなと感じた。
 そもそものきっかけは3月29日日曜日の朝の民放テレビでの儲かっている会社紹介番組であった。ここで、福井鉄道というローカル私鉄の路面電車が、えちぜん鉄道というローカルな私鉄に田原町駅という駅で乗入れて以来、えちぜん鉄道の乗客が格段に増え会社の儲けが上がったとの紹介であった。
 個人的にはこういう直通列車が福井で走っていることを初めて知ったことがとてもショックだった。こういう情報は鉄道雑誌で毎月チェックしていたつもりであるが完全に見逃したわけである。
 Webで確認すると2016年3月27日に相互乗り入れが開始されたらしい。
 まる4年も知らなかったというのは、恥ずかしく穴に入りたいほどである。ただ、穴なんかに入っている前にまずは乗らねばということで、福井に出かけたいと思った。
 首都圏や関西・名古屋などの大都会ではコロナウイルス感染拡大防止のため不要不急の外出はしないよう呼び掛けていた。福井県では、1週間ほど前にコロナウイルス感染の初めての患者が出ていた。少し迷ったが、今なら行けると思った。

 実家を8時前に出、最寄りの駅からガラガラのJR特急サンダーバード大阪行に乗車し、9時4分福井に降り立った。
 福井に来たのは何年ぶりだろう。JR駅の南側は敦賀まで延びる新幹線駅高架工事の真っ最中であった。が、福井鉄道の停留所のあるJR駅の北側はバスやタクシーの整然としたロータリーが出来、新しいビルが建ち、その前が広場のような空間になって整備されていた。平日の朝だが、春休みでもあり学生の姿もなく(2月末から、ずっと休校措置が取られているのだろうが)、通勤しているような人が少ないのもコロナのせいか。南側より北側に利用者が多いのでこれだけの整備が進んでいるということのようである。また、広場の東側には、福井県の観光の目玉の恐竜が何やら何匹かいて、もぞもぞ動いているようだが特に興味はない。
 福井鉄道福井駅のプラットホームは道路に沿って、丸いロータリーの接線のような角度で3本並んでいた。
 ただし、路面電車の駅なので、バス停のあるロータリーより規模ははるかに小さかった。
 路面電車なので、しょっちゅう来るだろうし、えちぜん鉄道が儲かったくらいだからと事前に時刻も調べずにそのホームの中央にある時刻表を見ると、なんと朝9時台に田原町(たわらまち)駅行は9時24分発の1本しかなかった。
 その他の時間帯でも1時間に2本30分間隔のダイヤとなっていた。
 時間が迫っていたので、とりあえずその電車に乗ることにした。
 待っていると9時22分ごろに2両編成のワンマン電車が3番線に入線してきた。
 JRも隣接するえちぜん鉄道も駅名は「福井」だが、福井鉄道のこの停留所名は「福井駅」だ。

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 福井鉄道福井駅付近の路線はやや複雑で、次駅の福井城址大名町までの区間が本線の引き込み線(支線)のようになっている。福井鉄道福井駅の約20キロ南西にある越前武生(たけふ)と田原町を結ぶのが本線になっていて、福井駅へは支線で乗入れているように見える。その支線も田原町方向に向かう線路しかなく、越前武生方面に向かうには福井城址大名町でスイッチバックしなければならず、運転手が一旦電車を止めて後方の車両に移動して折り返しているようである。
 2、3人のヒトが降りて、運転手が前の車両に行き一旦閉めたドアを開ける。電車は高床であるが乗りやすいようにするすると電動の乗り降り用の階段が降りてくる。前の車両に自分以外には乗るヒトもなく直ぐに発車。向かい側には一人マスクをしてむっつりした40代の女性が一人乗車している。越前武生方面からの直通の乗客のようである。
 のろのろと駅前の通りの真ん中を単線で走りやがて広々とした国道に差し掛かり複線になりつつ右に曲がっていく。右折で曲がり終えたところが福井城址大名町だった。複線の線路が片側3車線の道路の真ん中に延び相対式の低く短いホームがある。乗り降りなし。しばらく走ると右手に城址公園らしいものがビルの合間に見えた。
 そのまま真っすぐに走って、仁愛女子高校停車。相対ホームだが、右折車の便を考えてか少しずれてホームが千鳥の形になっている。向かい側に座っていた不機嫌な表情の女性が降りていく。学校の先生なんだろうか。
 さらにしばらく直進すると複線の線路が左折するように左に急カーブする。田原町終点のようだ。道路を直進するとすぐに踏切が見えるので、えちぜん鉄道線が堂々と道路を横断しているようである。
まもなく左片ホームの終着駅らしい行き止まり田原町駅ホームに定刻9時35分に到着。向かい側にえちぜん鉄道のホームが見えている(図1)。

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 あそこにやってくる次の直通列車の発車時刻を早く知りたい。
 改札口に立っている福井鉄道の中年の駅員に福井駅の整理券と運賃160円を渡し、ちらりと福井鉄道の駅舎内を見た後に、すぐにその改札口の反対側に見えるえちぜん鉄道の駅員のいる駅舎に向かう。
 改札口の脇に掲示されている時刻表を見る。
 次の直通列車は9時58分発の急行鷲塚針原行であった。直通列車は毎時58分発ですべて急行鷲塚針原行であった。田原町駅から三国港方面へ6つ目の駅が鷲塚針原であり、急行といっても途中の中角(なかつの)を通過するだけである。
 終点の三国港までは行って戻る時間の余裕がないので、とりあえず本日は次の電車の終点の鷲塚針原まで行ってみよう。窓口で280円の切符を購入。
 その前の3番線にやってきた三国港行の電車を見送る。その間に、今日の目的の渡り線の現場を見に行く。
 えちぜん鉄道の島式ホームは従来の電車が発着する高床ホーム(3番線)と直通列車の止まる低床ホーム(2番線)になっていて、2番線の端っこから渡り線を観察する(図2と写真参照)

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 わずか、10メートルたらずのこの線路が今日の乗車目的の渡り線であった。

(この項続く)

富山地方鉄道市内軌道線と旧富山ライトレールの直通

 2020年3月は新型コロナウイルス感染が世界にまん延し、その感染力の強さと有効な治療法のないために世界中が震撼し始めた。

 その感染拡大が騒がれているさなかの3月21日にJR富山駅の下の新しい渡り線に電車が走るようになった。

 富山駅北陸新幹線が2015年に開業する前から大規模な駅の高架化の建て替え工事が進んでいた。その中で富山駅を始発とし北東の岩瀬浜まで8キロ弱と短く伸びる富山港線を高架にしてまで存続するかの検討が行われ、結局採算の面でJRから第三セクターに切り離されて富山ライトレールという路面電車で2006年3月から存続することとなった。路面電車化したのは構想として、富山駅の南側に7.5キロの市内軌道線を有する私鉄の富山地方鉄道との相互乗り入れがあったためらしい。それが2020年に実現することになった。JR富山港線はもともと戦前に富山地方鉄道の前身の会社が所有していたのを当時の国鉄が買収しているので、長い年月を経てまた戻ってきたということになる。南北の連絡線建設という構想から実現まで15年以上という気の長いプロジェクトが完了し直通列車が走るようになった。ともかく粘り強くやっていれば夢が実現するというお手本のような路線である。

 僕の個人的な鉄道趣味としては、旧富山ライトレールが高架になった富山駅の下に延びて、南からは富山地方鉄道路面電車の線路が伸びて、合体するという分かりやすい渡り線に今回乗っておこうということである。

 ということで、開通2日後の3月23日に富山駅に降り立ち、その渡り線に乗ろうと思った。

 個人的には、日本のJR及び私鉄の全線を一度乗りつぶしたが、このような別の路線同士が直通運転をする際に渡り線という直通を可能にするような短い(時には少し長い)線路を敷設することがあり、そこも乗らないと全線の乗りつぶしにならないという“こだわり”が趣味になっている。

 図示すると以下のようになる。

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 実際に20メートルに満たない長さである。ひょっとすると、その重要性は分かるヒトにしか分からないだろう。これがようやく完成して次々と列車がやってくる。本当に祝福したい気分だ。

 富山地方鉄道の軌道線用車両(路面電車)には、何種類かあるようだが、旧型の車両はいずれも一両編成で、富山駅で従来の南方の路線専用で折り返しているようである。

 富山駅南に行く路面電車は昨年(2019年)11月に富山に来た時現在の富山駅から発車しており、自分は南方向から駅まで乗車していた。調べてみると北陸新幹線が金沢まで開業した2015年3月14日に同時にこの停留所も開業していたので、南側の渡り線は5年前にすでにでき来ていたということになる。もともと駅前の道路面して「富山駅前」という停留所があったのをむりやり駅に引っ張り込んだ格好であるが、新幹線及びそれまでの在来線だった「あいの風とやま鉄道」の富山駅の改札口を抜けて直進するとこの停留所に行け、乗客の利便は格段によくなった。高架の駅下なので、特に冬場の雨と雪を避けて屋内で電車を待つことができるのは大いにありがたいことだろう。

 ということで、本日は北に向かう旧富山ライトレールへの渡り線に乗車することが目的になった。

 昨年11月の時点ではこの個所が激しく工事中で市内電車のホームの構成がよくわからなかったが、本日冷静に眺めてみると二本の線の真ん中に島のようになっていて2本、両脇に2本とホームがあり、さらにそれが真ん中で歩行者通路によって前後に分断されて、合計8つのホームとなって各方面に行くときの乗車口(あるいは降車口)として区別されているようであった。富山地方鉄道の南への軌道線はそれほど長くはないものの、山手線のような環状部分があったり、行き止まりがあったり、行先もバラエティがあるので8つのホームが必要なのだろう。

 今度の岩瀬浜行は駅改札口から一番手前の5番線から発車する。すでに10人以上が並んでいる。晴れてはいるものの風が冷たい。スマホの乗り換え案内時刻表では11:56富山駅発だが少し遅れているようだ。

 すぐに2両の銀色の低床式の路面電車セントラム)が到着。停留所南側の1番線に止まっていた電車が出発するのを待っていたようだ。

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 電車が来ると、横断する通路に立つポールが赤く光り、通行人を通せんぼするガードマンが二人手を広げている。踏切にするわけにもいかずこの辺はマニュアルで安全を確保する作戦のようだ。

 12:05発車。車内は立つ人が多く盛況である。停留所を出てすぐに右に30度ほど折れて旧富山ライトレールの駅があったところを通過する。この辺は4つの線に分岐する箇所なのでポイントが複雑に交差している。やがてそれが1本に収束していく。それを眺めながら、未乗車区間完乗を密かに喜ぶ。

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(この項おわり)

相鉄・JR直通線 初乗車記録

 北海道の鉄道記録から一旦離れて、横浜自宅近くに開業した新線乗車記録を綴ってみました。


 2019年の鉄道関係の一番の話題は台風19号による千曲川氾濫の影響で北陸新幹線車両10編成(120両)が車両基地で浸水してその車両すべてが廃車になったことだろう。これらの車両は、その走行する地域で用いる交流と直流の電流を交互に切り替え可能な、そして他の路線の新幹線では代替できない高価な車両だった。それが浅草のどじょう鍋のように整列して泥水に浸かっているサマは何とも衝撃な映像だった。JRは線路の浸水と車両不足のために北陸新幹線は金沢までの運行を直ちに取りやめたが、幸いなことに驚異的な対応の結果、臨時ダイヤで約10日後にほぼそれまでのダイヤと遜色ない格好で復旧した。しかしながらなぜ、ああなるまで列車を一編成も動かさなかったのかと、個人的には、そのお粗末と感じる対応に久しぶりに頭に血がのぼったニュースであった。
 その次の話題は、横浜のローカルな私鉄の相模鉄道(以下、相鉄)が約10年越しの難工事を行いJR東海道線の一部ともいえる貨物線とつなげ、横浜を経由せずに東京都心部へ直通列車を走らせ始めたことだろう。事前の情報では武蔵小杉から先は湘南新宿ラインのルートを通るということから、湘南新宿ラインの電車が海老名に来るのかと錯覚していたが、なんと相鉄線の電車の中にJR埼京線の電車が乗り入れることとなった。
 相鉄は、横浜周辺のヒトのみが利用するローカルな私鉄であり、その他の地域の人にとって見たら全く無関係なことであろう。ところが個人的には自分が2003年以来居住する保土ヶ谷区を通り、妻もその沿線に職場があるということで注目していた。
 そしてこの新線の唯一の新駅羽沢横浜国大駅が自宅の徒歩圏内に出来たということはなんという偶然・ご縁かと感じた。
 自分には自費出版で乗入れ列車の乗車記録をまとめた本が2冊ある。
 乗入れ列車だけが趣味なのではなく、乗り鉄として全国のJRと私鉄を一度完乗しているので、何を書いてもよかったのだが、なにか鉄道本としての新しい切り口として、読む人にとって真新しい観点でと著作を制作し、重箱の隅のような話を2冊に渡って書いた。
 2冊で止めたのは、その時点でそれ以上の乗入れ列車がなくなったからでもあった。
その後、乗入れ列車として、東北本線仙石線の間に渡り線を増設し、仙台と石巻間を走る仙石東北ラインが走り(2017年)、JR東日本の今後のビジョンの中に貨物線を利用した羽田空港付近のアクセスの向上などで地道に乗入れ列車が広がる可能性を見せていた。
 そして相鉄・JR直通線の乗入れ列車が2019(令和元)年11月30日に走り出した。
 当然乗らいでかということで、開業1週間前にいまだ工事中の羽沢横浜国大駅を下見し、家からのアクセスがあまりよくわからない不安を取り払い、万全の態勢で開業当日の朝駅に向かった。
 上り電車の西谷始発の時刻に行ってもいいと思ったが、この時期は夜明けが遅く6時頃では暗くて付近の様子が分からず、ちょっと右側に見える貨物駅(横浜羽沢駅)の景色も見えなければ、個人的には新開業区間を乗車したことにならないので、夜が明けた7時過ぎに家を出た。
 一度坂を下ってバス通りに出て今度は畑の中の坂道を登る。丘の上の尾根道みたいなところに到達して少し南に進み今度は反対側に降りていくと羽沢のJR貨物駅が見えてくる。
 相鉄の駅舎はその貨物駅を横断するクリーム色の網かごのような跨線橋を渡った先にある。
 渡って見下ろすと駅前に大勢のヒトがとぐろを巻いている。想像以上の混雑が始まっていた。 

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 なんと次の西谷行きの電車は下り電車の一番列車で、7時37分発である。駅の構造をゆっくり見る余裕がなかったので、改札を抜けて1番線に降りる幅の広い階段を駆け下りる。結構な深さだ。両脇が煉瓦模様(の壁紙?)で、大学の駅の雰囲気を作ろうとしているのかのようだ。降りたところが、ホームドアの付いた相対式ホームだった。
電車は発車定刻の1分ほど前にやってきた。相鉄がこの線のために作った深い青色の12000系電車10両編成だ。ホームは地上の混雑から見るとかなり空いていて電車より記念切符に興味のあるヒトがいかに多いかということであろう。
 定刻発。車内の座席はほぼ埋まっているが、立つヒトは少なく車窓を見るには問題ない。電車はさらに地下深く走るが徐々に右カーブしながら勾配を登る約2分後に地上に出てすぐに西谷7時40分到着。この2.7キロが新線である。あっけないと言えばあっけない初乗りであった。西谷は島式2本のホームで1番線に到着。
 沖縄のモノレールが2019年10月に4.1キロ延伸し、それを乗っていないので、日本全国完全乗車が途絶えているが、とりあえずこれで本州完全乗車はキープされたことになる。
 改札を出てすぐさま、逆方向の7時48分発の川越行に乗るため、再入場し4番線に降りる。JR東日本E233系埼京線電車がすでに大勢の客を乗せて待機していた。4号車のE232-7037 に乗車。しばらくして向かい側ホームに横浜行の快速が到着して、まあまあの数の乗客がこちらに乗車。ただし半分以上は開通した線に乗るための乗客のようだ。向こうが先に発車して、こちらは後に発車。すぐさま地下トンネルに入り込み、あっという間に羽沢横浜国大駅到着。1分ほど停車。乗務員が相鉄からJR東日本に交代しているのだろう。乗ってくるヒトは少ない。
 ここから先JRの貨物線までの短い区間が新しい線ではあるので、右側の車窓に注目する。
 発車直後、東横線につながる新線の複線のトンネルの出口が見える。すでに完成しているようだ。徐々に勾配を上げて地平線のレベルになると横浜羽沢貨物駅の構内が良く見えてくる。手前でテントが張られちょうど何か落成式のような儀式を行っている集団が見える。今回の開業と同時になにかこしらえたのだろうか。ゴトゴトと貨物線の線路との合流が終わり、雑木林の山をちらりと見て列車は長いトンネルに突入する。

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 ここから先は2001年に初めて乗車してその後数回乗車している。湘南ライナーという東海道線の通勤快速列車が平日毎日走っているので、これまでも毎日乗っているというヒトもいるだろう。羽沢横浜国大駅から次の武蔵小杉駅の間は16.6キロもあり、首都圏での駅間隔では一番長くなった。東京駅から京浜東北線で南にいけば蒲田の先の多摩川大橋あたりまでの長い距離をノンストップで走る。そのうち大部分が地下トンネルで東海道本線の鶴見手前で地上に顔を出す。トンネルの中では、インターネットが使えるようになっている。鶴見駅を左手に見て、徐々に高度を上げていき鶴見川を渡ったあと、左カーブして高架橋で東海道線京浜東北線をオーバークロスし、徐々に地平に降りてゆく。右側から南武線の尻手から続く貨物線が合流して、新川崎駅の構内に近づく。
新川崎駅は一番西のはずれの貨物線を疾走する。様々な機関車が止まっていて見るのが楽しい。
 やがて少しスピードが落ちて、右手に武蔵野線の梶ヶ谷貨物駅に延びる単線のトンネルが見え、横須賀線との合流地点に差し掛かる。さりげなく、ゴトゴトとポイントを通過して合流する。すぐに武蔵小杉駅4番線に定刻8時8分到着。ここで乗り換えれば、同じホームで東京駅方面にも千葉・成田空港にも行ける。便利なことこの上ない。
 マイナーだった貨物線が有効利用されることで、相鉄線に太い動脈が移植されたことを実感した。

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(この項おわり)

やっぱ、北海道~(第23回)

新十津川駅札沼線


 札沼(さっしょう)線の新十津川駅は、駅舎は、おとぎ話に出てくるようなほのぼのとした木造の1軒屋ではあるけれど、終着駅としての存在感がない不思議な駅である。
札沼線という線そのものも不思議な線で、その名の通り、札幌と留萌本線の石狩沼田を結ぶ線として戦前に開通したが、戦時中は不要不急の線として休止されその後も利用者が少ないため、地元も合意し1972年に石狩沼田ー新十津川駅間が廃止された。その結果、新十津川駅は、行き止まりの盲腸線の終着駅となった。ところが札幌の郊外を結ぶ線として1991年に学園都市線などという別名を付けられ、途中の北海道医療大学前駅までは電化されて、現代的なロングシートの都市部の通勤電車が頻発している。
一方、北海道医療大学新十津川駅間は非電化のままで、1両のディーゼルカーが走り、どんどんダイヤが希薄になり先端部浦臼新十津川駅間(13.8キロ)では一日に1本になってしまった。2019(令和元)年7月18日現在、朝の9時29分に新十津川駅に到着した1両の列車が10時ちょうどに折り返すダイヤである。同好の士の間では、日に3本になったあたりからこれは廃線の兆候があるということで話題となっていた。ついに2016(平成28)年3月のダイヤ改正で終電が朝10時と日本一早いという線になってしまった。
ただし、この駅は山の奥のようなどん詰まりの駅ではない。その歴史からわかる通り開業当初は途中駅であり、地形的にも石狩平野の根元みたいなところに位置していて、何よりも石狩川を挟んで函館本線の特急停車駅の滝川から2キロ少しという場所である。
したがってというか、乗り鉄としては、新十津川駅に到着するのは盲腸線を気長く往復するより、滝川から移動して(時間の節約のためにはタクシーとなるけれど、路線バスの便も悪くない)、新十津川駅に向かいたくなる。また、乗ったとしても、新十津川からそのまま引き返すこともないだろう。滝川に向かえば、根室本線にもつながっているし、行く先も迷うくらいに鉄道旅の可能性が広がる。新十津川の地元のヒトも、札幌に出るにしても新十津川駅を利用せずにバスと滝川駅経由の方に足が向くということになり、朝10時に終電となっても特に困ることはないということになるのだろう。
そのために、存在感がうすい終着駅と感じるのかもしれない。

そして、2020年5月7日に北海道医療大学新十津川駅間の廃止が決定となった。

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                       (JTB時刻表2019年3月号より)


この線の初乗車は1985年9月30日(月)だった。この日は旭川で仕事があり、札幌に前泊し、札幌駅から早朝に札沼線に入り込んだ。この時には、札幌から新十津川駅に直通の列車が走っていた。

札沼線新十津川駅行は、9番線のディーゼルカー(キハ40)の5両編成。6時07発で下り列車なので5~6人/両という乗車率。
最初は、小樽方面を桑園まで高架で市街地を走り、そこから右に分岐して北東に進路を変える。
石狩川を渡ってしばらくして石狩当別6時53分着。改札にスタンプがあり、「きれいな空気を豊かな自然にめぐまれた駅」とあり、桑園と石狩当別間が開通して50周年とある。
8分間停車して、後方の4両を切り離す。札幌への通勤・通学列車になるのだろう。
こちらの1両に新たに乗ってくるヒトは、ほんのわずかだ。7時05発車。
左手に山が迫るが、石狩当別の前から続く単調な農村風景が車窓に流れ、列車の揺れが心地よい。山あいに近くなっているのか、木々が黄色く色づいてきているのに気づく。ときどき赤い実をつけたナナカマドが見える。
石狩月形7時34分着。客が少し入れ替わり、乗車率が20%ぐらいになる。その先、晩生内(おそきない)駅で、中学生の集団が乗り込んでくる。車内がやや活気づく。通学列車としての役割をこの列車は果たしているようだ。
朝早くには曇っていた空から朝日が顔を出し、左手(西方)遠方の山にその陽が当たり、木々の緑が映えて輝いて見える。
次の札的(さってき)では、乗り降りなし。その次の浦臼で、学生が全員降りていく。
ぱらぱらとした客を乗せ、まさに途中でちょん切られた感じで終着新十津川駅8時25分定刻着。
函館本線滝川駅への国鉄バスに乗り換えるため、300メートルほど離れた新十津川役場前まで歩く。バスは8時40分発と好接続。
石狩川を渡って約5分で滝川駅に着いた。そのあと9時03発の旭川行の特急ライラックに乗り、旭川に9時43分着。滝川では、ちょっと綱渡りのような乗り換えだったが、仕事に支障なく到着。

2回目の乗車は、2013年1月に旭川から富良野線に乗車し、富良野根室本線上り列車に乗り換えて、滝川から新十津川駅に向かった。28年ぶりの再訪だった。
11時33分に富良野駅を発車の根室本線滝川行きは、朝5時45分に釧路を出てはるばるやってきた1両のディーゼルカー(キハ40系)の快速『狩勝』だった(6時間以上走る日本一長時間走る列車として有名だったが、その後大雨による災害で、東鹿越ー新得駅間が不通となり、2019年7月現在この列車は走っていない)。その列車で定刻12時27分に滝川駅の1番線に到着。
次の新十津川駅から出る12時59分発の列車に乗り継ぐために、駅前でタクシーに乗り込む。道路の脇にかなりの積雪がある。運転手に約10分かかると言われたが、少し早く新十津川駅に到着。
ポツンと置き忘れたような平屋建ての小屋のような駅舎が雪を屋根に目いっぱい乗せて建っていた。その向こうに一段高いところがホームで、列車(キハ40)が1両すでに停車している。駅の幅を超えて列車がはみ出ているので、1両でも結構な長さに見える。

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自分が降りたタクシーの運転手に声をかけて、滝川までと言っている50歳くらいのおじさんとその連れの奥さんのようなヒト二人が方向転換したタクシーに乗り込んでいる。恐らく札沼線でここまで来たのだろう。気合いの入ったおじさんに比べて女性の方はあまり楽しそうな顔をしていない。駅前はかなりの積雪で正面の通路がきれいに除雪だけされているがその他はこんもりと新雪が積もっている。その中に三脚を立てて熱心に写真を撮っている60代のおじさんと大きなレンズをつけた立派なカメラをもってあちこち動き回る青年など、普通のヒトはいない。
無人の駅舎の中はきれいに整頓され、旅ノートが置かれ、スタンプも押せるようになっていた。駅舎側に片ホームがあるだけで整理券を取って乗り込むと駅と反対側は樹氷の林であった。駅の正面には、倉庫が立ち並び人々が乗りに来る気配もしてこない。
12時59分数人を乗せて定刻発。
駅を出るとたちまち両脇に雪原が広がるようになる。その中を今にも止まりそうなスピードでゆるゆる行く。
次の下徳富(しもとっぷ)左片ホーム。駅舎が雪で押しつぶされそうになっている。
更にその先の南下徳富も左片ホームであるが、ホームが材木でできている。そこに立派な駅標が建っているので短いホームが更に窮屈に見える。
ゆらゆら走って於札内(おさつない)。この駅は、降りる所だけ除雪されているがその先に通路が見えないので、降りてもその先に進めそうにない。恐らく困るヒトがいないのだろう。
浦臼は左片ホーム。初めて一人乗ってくる。思わず、いらっしゃいという気持ちになる。陽が差してくる。駅舎がコミュニティセンターになっていて立派である。
右手に針葉樹の林、左手が真っ白の雪原という景色が続く。
晩生内(おそきない)、右片ホームの小駅。新十津川駅に似た木造の駅舎がある。同じように山盛りに屋根に雪がある。
その後少し走って、札比内(さっぴない)。左片ホーム。この辺の駅名はアイヌ語の「ない」(川の意味)がついているものがいくつもある。すべて石狩川にそそぐ川のことなのだろう。駅のそばに日蓮のような像が立っている。その像にも雪が積もり、無人のちゃんとした格好で残る木造の駅が雪に埋もれてしまっている。
その後、山の中にさ迷いこむ。
豊ケ岡は、右片ホーム。山の中の停車場。
石狩月形は島式ホーム、4人乗ってくる。益々、積雪が増えてくる。ラッセル車が休んでいる。駅員もいる。
知来乙(ちらいおつ)は左片ホームの停車場。山の中の小駅。左右が、雪の壁になり景色が見づらくなってきた。
月ケ岡に近づき、人家が増える。左片ホーム。吹雪になって車窓が見えなくなる。
中小屋、左片ホーム。積雪2メートルくらい。ダルマ駅(使われなくなった貨物列車の車掌室を再利用した簡易駅舎)が雪に埋もれている。この辺は、日本海側の気候なのだろう。実家の豪雪時とよく似た地吹雪が吹いている。
その先、電化区間の始まりの北海道医療大学で、雪かき部隊がいた。2番線に3両編成の札幌行電車が停車中。吹雪がますますひどくなる。
14時20分定刻にこの列車の終着駅の石狩当別の3番線に到着。
次の乗り継ぎ電車は、先ほど北海道医療大学駅で見た電車が1番線から14時34分発。
石狩当別駅は、最近どこでも見る橋上駅。一応、キオスクもある。
乗り込んだ電車は、3ドアのロングシート車両。窓が大きく、吹雪の中を快調なスピードで走る。左側の窓に雪がこびり付いているが、右側はきれいに外の景色が見える。車内アナウンスはテープの音声だが、落ち着いた男性の声で、格調高い感じすらする。新千歳空港からの列車のアナウンサーと同じ声のようだ。
次の石狩太美(いしかりふとみ)、相対式ホーム。大学生らしき若者が何にも乗ってきて、社内も賑やかになる。トラス橋で石狩川を渡るとすぐにあいの里公園。相対式ホーム。下り列車と交換したあと、とろとろ走って、あいの里教育大、相対式ホーム。大勢乗ってくる。札沼線は線自体が、ヒトのライフサイクルを見せてくれる線のようにも思う。1両のディーゼルカーが往復する先端の部分とこれからの未来を嘱望される札幌近郊の電化部分。共存できずに前者が廃止になるのはやむを得ないのだろう。
新琴似で、駅が高架になる。札幌の市街地に入ったようだ。列車が函館本線に合流するため、どんどん左カーブしている。その途中駅、八軒。桑園手前で、合流。
桑園は島式ホーム2本の高架駅。4番線に到着。ホームに蛍光灯が点いているが、駅が暗く見える。
高層マンションが目立つようになり、札幌15時14分着。