日高本線と富内線のモンゼツ旅の記録(その1)

 日高本線は、思いを遂げることなく、まもなく大部分が消滅する運命にある。
 本線は、北海道の日高山脈の西南の太平洋沿いを苫小牧から様似(さまに)に至る全長146.5キロの長大なローカル線である。東海道線ならば、東京から東へ静岡県の吉原あたりまでの距離で、神戸から東に行くならばほぼ米原までの距離である。その本線という名に恥じない線の先端部[鵡川(むかわ)から様似までの116キロ]が間もなく廃止されバス路線となる。実際には2015年1月に襲った猛烈な高波で路盤の土砂が流失し、この部分はすでに代行バスによる運行となりそれ以降列車は一度も走っていない。さらに2016年に台風によって被害は拡大し、地元とJR北海道との協議が重ねられたものの、JR北海道の経営自体が危機を迎えてしまい、すでに沿線の町はこの部分の廃止とバス転換に合意している。
 ただ、この線が終点の様似まで建設された昭和12(1937)年当時は、さらに海岸線を南下してえりも岬近くを経由し広尾線(帯広-広尾、1987年2月廃止)の終着駅広尾駅まで繋げる予定があった。世の中が変わったせいもあるが、もともとの思いは太平洋岸に沿い苫小牧から帯広までを繫ぐ壮大な夢の路線であった。それが約80年後に襲ってきた高波で路盤がえぐられ線路が宙づりになり廃止に追い込まれることとなった。
 また、支線として1986年10月までは、本線の途中駅の鵡川から終着駅日高町に伸びる富内(とみうち)線という片道82.5キロの行き止まりのローカル線が走っていた。
 富内線は、1985年当時第2次廃止対象(第2次特定地方交通線)とされていたため、乗車機会が限られる勤め人の自分としてはこの支線から日高本線に乗車せざるを得なかった。この鉄道趣味(全国乗りつぶし)に目覚めたのは、1984年8月で突然だった。雷に打たれたという表現が大げさでないほど、廃止予定線をできる限り片っ端から乗りつぶさないといけないという思いに取りつかれた。乗りたくても線路がどんどん消滅していくという状況で、焦りを感じながら全国を飛び回っていた。また、広尾線も第2次廃止対象路線だったので、富内線の乗車直後に再び北海道に出直して帯広から広尾線に初乗車し、そのままえりも岬を経由して様似から苫小牧へ日高本線を通しで乗車している。しかし、様似から苫小牧の間は急行で2時間40分だが、各駅停車だと約3時間半~50分かかった。ただし、本線の方は海沿いを走り、時に渚近くを走るので車窓は退屈しないと思った(乗車したら、退屈でモンゼツした)。ただし、右窓からはサラブレッドなどの競走馬を飼育する牧場があり、この線特有ののどかな風景も楽しめた。
 一方、富内線の車窓は単調な山と谷だけの風景でなんとも退屈で身もだえする路線であった。終点の日高町まで行く列車はすべて各駅停車で、1日4本しかなく、苫小牧から約3時間、鵡川からは約2時間20分かかり、なおかつすぐに引き返さないので、恐らく何も観光できるところのない日高町で最低2時間ほど時間をつぶさねばならないという“苦行”を覚悟しなければならなかった。

f:id:Noriire23:20200501132639j:plain

(写真は、JTB時刻表1985年2月号)

 今回このブログに本線の鉄道日記を掲載するにあたり、実際の富内線のルートを見てみると日高山脈の北部分をぐにゃぐにゃさまようような凄いローカル線だったことが分かった。

f:id:Noriire23:20200501132836j:plain



 終点の日高町からその先石勝線の占冠(しむかっぷ)まで富内線を延長する計画があった。しかし、なぜ?と思うような何もない山岳地帯である。スイスのように鉄道を観光の基盤の一つに考えるようなら、その先の展開はあったかもしれないけれど、あいにくこの辺にマッターホルンはない。恐らく地元の政治家か有力者の思い付きのような路線だったようにみえる。
 前置きが長くなったが、まず富内線の乗車記を最初にお示ししその後に日高本線の乗車記録を書いてみたい。最初に申し上げると終着駅日高町には本当何もなかった。。。

(この項つづく)