バンドメンバーに見てもらう

山本貴光著『投壜通信』(本の雑誌社刊)は、本にまつわる著者の関心事をひとつひとつ丁寧に綴った読み手のある新刊だ。

その中の一章に、本づくりがバンド活動のようだとある。編集者やその他のヒト達の協力があって本が出来て世に出て行くことを謙虚な視線で書いている。

書いた部分を編集者や第三者に見てもらい、意見をもらって書き直していく作業の重要さについて。

今、自分がブログに書き綴っているが、まだ第三者の意見がもらえていない。

このブログの原稿に意見をもらって良くしていけることが楽しみだ。

 

やっぱ、北海道~(第22回)

viii. 広尾線の今むかし
 帯広は、深呼吸したくなるような大らかなまちである。
 十勝川とのその支流沿いに広がる平野は、北海道の中でも有数の広くて肥沃な北の大地であり、帯広はその中心都市だ。
 ここに1980年代半ばまで、北の大雪山連峰に向かう士幌線と、南の襟裳(えりも)岬方向へ向かう広尾線が、両方とも各駅停車の列車だけが2両ほどでトコトコ走っていた。両線とも行き止まりのローカル線で地元の高校生の通学列車のようであり、観光客が訪れることはもともと少ない路線であった。が、広尾線に幸福と愛国という駅があることに注目されるとその駅名の入った切符を求めて、全国から広尾線に観光客が押し寄せた。ただし、それでも広尾線の収益は大きく改善することなく1987年2月に廃止された。士幌線はそのような脚光を浴びることなく静かに同年3月に廃止となった。
 2017年2月に釧路・根室間を往復した後に、ほぼ広尾線跡を走る十勝バスに乗り、その終点の広尾駅舎を再訪した。さらにその先バスを乗り継いで襟裳岬に向かった。ここも再訪であるが約30年前のことで、記憶が曖昧である。
 広尾線が走っていた当時から広尾-襟裳岬間には国鉄バスが走っていて、えりも岬へのアクセスは確保されていて、さらにその先北西方向を海沿いに走る日高本線の終点様似(さまに)駅まで行く国鉄バスも走っていて、当時の国鉄のワイド周遊券さえあれば一人旅で気安く回ることのできるルートだった。
 初回のえりも岬には妻とで1985年11月に出かけた。自分たち以外には宿泊客のいない民宿で季節外れの毛ガニが出てきた。ぱさぱさの身で美味しくなかったことだけが記憶に残っている。今回もえりも岬の先端近くにある宿を予約した。前とは違い土木関係者の定宿みたいな簡易ホテルであった。今回の再訪には目的がさらに一つ加わってえりも岬灯台の根元まで行って灯台をじっくりと見に行く。
 廃止路線を中心に鉄道に激しく乗っていた1985年から90年代当時は灯台巡り趣味は全くなかったが、それでもいくつかの灯台は訪ねていた。ガイドブックで気づいて、例えば、島根県出雲大社を訪ねた後に日御碕(ひのみさき)灯台を訪ね、日本で一番ののっぽの灯台を眺め(到着した時間が遅くて登れず)、秋田県男鹿線の終点からバスで入道埼灯台を見にでかけ、広々とした広場に建つ黒と白の縞の灯台を眺めた。しかしながら、津軽線終点の三厩(みんまや)を訪ねその先バスに乗り換え龍飛漁港で降りて階段国道339号線を登った時、また、津軽海峡線の龍飛海底駅から地上に出た時も、間近にある龍飛埼灯台は見そびれ、四国の室戸岬に宿泊した時も灯台が近くにあることすら意識していなかった。趣味という意識がなければ、そのようなもんだろうと思う。
 11時24分釧路発の特急スーパーおおぞら6号に乗車し、12時56分定刻に帯広到着。帯広駅は、広尾線が走っていた当時と変わって、高架の島式ホーム2本とシンプルになっている。次の広尾行きのバスは13時20分発なのであまり時間がない。バス乗り場もどうなっているか調べていないので早めにターミナルに行くべきと思いながら、今回は、帯広は通過するだけなので、駅下の少し大きめのキオスクで何か物珍しいものがないかを物色する。アルコール度数59度のブランデー原酒が180 ml瓶で2,200円で売っている。隣町の池田市は十勝ワインで有名な場所であり、そこで最近作り販売を始めたらしい。荷物としてかさばらないので、少々財布のひもを緩め購入。
 バスターミナルは駅の北側にあり、広尾行バスの11番のりばがすぐに見つかる。
運行は60系統の十勝バスで、発車時刻が間違いないことを確認する。
 鉄道の乗りつぶしで意外と役に立つのが時刻表のJRのダイヤのあとに掲示される地方の交通機関のダイヤである。どこにどのようなバスが走っているかが結構詳細に載っている。バス会社の名前が分かれば後はインターネットでさらに最新の情報を確認し、次には地図上のバス停の位置まで確認できる。列車だけでは行けるところが限られてしまうが、路線バスは旅を奥深くする大きなちからだ。
 バスは定刻の直前に乗り場にやってきた。そばで見るとサビが浮いて年代物のバスだった。6人ほど乗って、発車。まずは駅を左回りに大回りして高架をくぐって南に向かうが、途中に病院やスーパーに寄り道して、乗客が少し増え、完全な地元の足になっている。一方、廃止になった広尾線は、駅を出ると釧路方に少し入ると右カーブして、あっという間に町から離れていた。では、国鉄広尾線の1985年11月9日の記録を引っぱり出してみる。

 朝早起きして士幌線の終点十勝三股を往復し、13時ちょうどに帯広に戻ってきた。ランチは駅近くの食堂で札幌味噌ラーメンと餃子。北海道のみそ味のラーメンは、どこか大地の香りがして格別である。
 次の広尾線は、5番線から14時14分発車の2両のベンガラ色(褐色)のディーゼルカー(キハ22系)。後方のキハ22-241の4人ボックスの窓側の席を確保。土曜日の午後のせいか帰宅の高校生で乗車率100パーセントを超える。自分たちの隣にも女子高生が座ってくる。広尾線は広尾までの84キロを2時間近くかけて走る。遠距離通学しているのかもしれない。
 定刻発。
 最初の駅依田は仮乗降場のような幅15センチぐらいの板を並べ打ち付けてできたホームの簡易駅。小さなかわいい女の子が切符入れに切符を入れようとしている。左手には白いビニール袋を下げ、車掌に手を振っている。列車が動いて、その女の子の母親と思われる若い女性と手を引かれた幼い男の子が現れる。
 カラ松と広大な畑の中をどんどん走る。
 北愛国、ホームは普通に土を盛っているが、駅舎はなくバスの待合室のようだ。
 次の愛国も同じだが、駅標だけが立派でにぎにぎしい。
 大正駅で腕木信号機が現れる。駅名だけひらがな縦書き駅標が他の線では、白地にクリームイェローの枠に入ったものに新調されていたのに、ここは昔ながらの青地に白い文字のままで廃線のムードがこんな眺めからも伝わってくる。少し学生が降りていくが、このボックスの二人は降りる気配はない。
 次が幸福駅で駅標の写真を撮ろうとして隣の女子高生の足を思いっきり踏んでしまう。気持ちよくお休みのところを起こしてしまった。
 上更別(かみさらべつ)にて上り列車とすれ違う。駅のそばに黄色い煙が上がっていることに妻が気づく。火事のようだったが、列車はそのまま出発。
 その先も単調な牧草地の中を走り、眠くなる。気づくと妻と二人で眠っていた。列車は途中の比較的大きな駅忠類(ちゅうるい)や大樹(たいき)を通過し、となりにいた女学生も降りたらしく、妻と二人になった。石坂駅手前だ。バスが道路を並走している。
 雨が道を濡らしている。時刻はまだ3時半なのに夕方の風景である。
 列車は雑木林の中を走り、流れの早い川を何本か渡り、海がちらりと見えた。
 終点広尾に定刻16時8分到着。駅舎は広々として襟裳岬へのアクセスの基地のような構えだ。駅前広場も広々としており、タクシーが何台も止まっている。待っていると国鉄バスがやってきた。

 2017年2月の広尾行の十勝バスに戻る。
 13時20分発のこのバスは土日祝日が運休という通学バスだったので、平日で乗れたのも幸運である。この後だと1時間後になる。南に向かうバスなので、運転席は日差しを浴びる。時に前寄りに座っている自分のところにも陽が差すのが気になるくらい早春の日差しである。
 バスは市街地を外れると、大きなポプラの並木が牧草地の境界線になっているような単調なところをひたすら走る。停留所名も「大正9号」から「大正30号」まで、数字が1ずつ増えていくような開拓されたままのような単調なものだった。その停留所を一つ一つ丁寧にテープのガイド音声で案内があるが、乗り降りは全くなく、バスが追加していく。いったいどれだけの停留所があるのかと、後でインターネットサイトで数えてみると帯広駅バスターミナルから広尾営業所前までの停留所は171ほどの数だった(その数について、正確かどうかは自信がないくらいに多かった)。

f:id:Noriire23:20181013201019j:plain

 停留所はあったが、かつての愛国と幸福駅の駅舎のそばにはバスは止まらなかった。見たければ、そのバス停で降りるしかないのだろう。
 通過する停留所も多かった。14時55分忠類(ちゅうるい)到着。国鉄の駅があった場所は停留所からは分からない。トイレ休憩で3分停車。手洗い場の水が出なかった。
 その先、結構市街地のようなところになり、大樹町役場の脇を通る。SLが静態保存されている。
 暦舟川の橋を渡る。砂金がまだ取れるところらしい。
 「コスモール大樹」は道の駅。停留所に道の駅が多い。途中から雪が舞いだす。陽が陰ってきて寒そうである。
 15時47分広尾営業所終点に到着(ちょっと予定より早いようだ)。駅舎は32年前に来た時と同じ若々しい体育館のような建物だった。

f:id:Noriire23:20181013200905j:plain

 列車が止まっていた駅舎の裏は雪の山であったが、出口専用の改札口には列車の走っていた到着時刻の入った時刻表が残っていた。

f:id:Noriire23:20181013201059j:plain

 駅前の左サイドには腕木信号機が残されていたが雪に埋もれていて寒々しい。
 駅舎の中に入ると小さな石油ストーブが燃えている。椅子はニスの塗られた木のつるつるのベンチで座布団もないので、お尻から冷えてくる。16時20分過ぎに帯広行のバスが出て自分一人が残る。70歳を過ぎたと思われる老人がバスを利用する客に声をかけている。ひょっとして元の広尾駅長かもしれない。寒いので、帯広駅で買った59度のブランデーのスクリューを回し、一口ごっくんと飲んでみる。カァーっと胃が熱くなってくる。

f:id:Noriire23:20181013200933j:plain                    (この項、終わり)

やっぱ、北海道~(第21回)

(続き)

 乗車したこの根室行きのディーゼルカーの運転席脇にはオープンなデッキスペースがあり、そこから前方の景色が見放題という特等席になっていた。
 釧路から一時間半以上じっと座っていたので、筋肉を伸ばして気分転換を兼ね、そこに立って前方を注視することにした。
 列車は小高い尾根のようなところを走っている。積雪が深い。ところどころに動物が線路を横断した跡が残っている。場所によっては、集団で渡ったような跡になっている。
 初田牛(はったうし)、左片ホーム。駅舎は、頑丈な鉄骨造り。
 別当賀(べっとうが)も同じだが、駅舎はダルマ駅舎だ。
 その先に、鹿がまさに線路を渡っているのが見える。列車が近づき、鹿は慌てて渡り終えようとする。列車もスピードを落とす。
 落石駅手前で、右側の草原に鹿が群れているのが見える。さらにその先の左カーブする線路を2つ3つと列をついて堂々と横断している。 

f:id:Noriire23:20180918155528p:plain


 「ひどいですね」と自然に出た言葉に、それまで黙っていた運転手が反応し、いまの実情を説明してくれた。
 エゾシカは約1000頭いる。線路があるのでハンターが来ないため安全であることを承知しているようで、線路わきに出没する。毎日JR北海道内で5~10件の鹿の事故があり、そのうち7割が花咲線で起こっている。なので、(鹿のことを予測した)運転テクニックがないと怖くてここは走れない。線路わきに侵入防止柵を張って鹿の侵入をくい止めるのがいいとはわかっても全部に張り巡らせられないので限界があるとのこと。
 ネットなどで検索したところ、鹿が増えた原因はヒトがエゾシカの天敵のオオカミを全滅させたためという。そうなのかどうかわからないが、今更オオカミを増やすわけにもいかないだろうし、解決策は容易でなさそうだ。
 西和田駅には、ダルマ駅舎。周囲に人家も見えるのにこのお粗末な駅舎では悲しい。
 次に、2016年3月に廃止になった花咲駅の跡があるはずだったが全くわからず。花咲灯台を訪れたことがあるが、線路は内陸を走っているので、沿線からは影かたちも見えない。
 東根室、右片ホーム。ホームは、木でできている。この粗末なつくりはJR北海道特有。約30年前にも同じ停車場がたくさんあった。が、これを見ると北海道に来たことの実感がわく。ここは、日本の最も東の駅として有名。釧路から東進して根室を目指すので、根室駅が最も東であっても不思議ではないが、花咲線は終着根室駅の一つ手前のこの駅から左カーブして北西に向きを変えるのでこうなった。高校生が何人も降りてゆく。近くに学校があるようだ。

f:id:Noriire23:20180918155626p:plain


 根室8時4分定刻着。右片ホーム。左側に側線が1本あるだけの行き止まりの駅。平屋のモルタルづくり。前回来た時と同じ建物だ。
 駅員はいるが、硬券の入場券なし。自動販売機なし、キオスクなし、駅弁なし。
 8時22分に折り返すが、何の食料の補給できないまま8時10分に改札が始まる。
 30人ぐらいが列をつき改札を抜ける。珍しいことに大きなカバンを持った中国人観光客らしいのはいない。
 日差しが眩しいので、右列の席に座る。
 前方に朝から缶ビールを3本並べて飲んでいるおじさんがいる。
 落石を過ぎて右側の丘を見ると、鹿が日向ぼっこをしてこちらを見ている。線路のそばに近づいてあわてて後退するのもいる。
 そのうち、ガガガと列車が急停止。
 ビールおじさんのビールが倒れて、それを元に戻すと泡が噴き出し、ズボンを濡らしてしまったようだ。狭い窓枠に缶を立てていたのが間違いでしょう。
 初田牛、乗り降りなし。駅の存続が怪しい駅になっている。
    浜中では3人が乗ってくる。
 往きでは通過した糸魚沢駅は、右片ホーム。どうしちゃったんだろうと思うくらい新しいロッジ風の小さな駅舎が建っている。
 さらに往きでは、まだ薄暗かった別寒辺牛湿原を左手に眺める。冬の大気でくっきりとしているが茫洋とした風景だ。雪のない、いい季節にもう一度訪ねてみたい場所だ。
 厚岸、若い女性が一人乗ってくる。
 門静(もんしず)から内陸に入って上尾幌、左片ホーム。下り線と並行ホームで渋谷駅と同じ構造。白い立派な木造の駅舎が建つ。その先は山の中に入り、登り勾配。右手の丘の上にも鹿がいる。
 短いトンネルを抜けて、しばらくすると下りになる。陽が当たったところの雪が解けて土が顔を出しているところに立派な角が生えている鹿がたたずみ、こちらを見ている。
 別保(べっぽ)右片ホーム。4、5人が乗ってきて立つ人がでる。
 右手に舗装道路が並走し、左手は湿地帯である。やがて川を渡ると湿地帯の真ん中を疾走するようになる。
 武佐(むさ)、狭い左片ホーム。その向こうに団地群が見える。
 右手は依然湿地帯だが、左手に人家が目立つようになり、釧路駅5番線に到着。10時45分。次の乗り換えは11時24分発の特急スーパーおおぞらで、帯広まで行く。
 発車する1番線に弁当屋がある。狙っていた花咲ガニの弁当は予約制だったので、タラバガニめしを選ぶ。大きな身が二切れ入っている。特急列車の中でいただくことにしよう。

f:id:Noriire23:20180918155911p:plain

                      (この項、終わり)

やっぱ、北海道~(第20回)

vii. 根室本線(鹿、鹿、鹿)
 北海道の鉄道で近年特に話題となっているのは、鹿の被害である。
 最初の鹿の被害を初めて見たのは、知床半島にある宇登呂灯台への遊歩道を歩いた際に、周囲の白樺などの木々が、腰の高さで皮が剥がされ、多くが枯れていた。聞けば、エゾシカが食べたためらしい。さらに、道東の落石岬灯台では、灯台に続く木道を抜けると鹿の大群がいて、あちらこちらで群れていて、こちらを見ていた。
 2017年の全国2周目乗りつぶし旅で根室に向かう根室本線(通称、花咲線東釧路根室間)でも、線路を堂々と横断する鹿の群れに遭遇し、驚いた。これは、2、30年前にはなかった風景だった。
 
 2017年2月13日(月)に石北本線旭川から網走まで乗り(本ブログ第8回~第10回で掲載)、その後、列車から流氷を見るために釧網本線に乗車。網走から途中の知床斜里で列車を乗り継ぎ、釧路泊。
 翌朝5時35分発の快速はなさきに乗車し、根室に向かうため、ホテルを5時過ぎにチャックアウト(地図は、JTB小さな時刻表 2018年-夏より)。

f:id:Noriire23:20180911163514p:plain

 まだ、夜が明けていないが、天気は良好そうだ。気温零下4度であるが、ズボンの下に履いたタイツが暖かいので、気持ちに余裕がある。
 釧路駅みどりの窓口には、昨日、2月15日に乗車する苫小牧―札幌間の特急列車の指定席を購入した時の女性の職員が今朝も座っている。宿直だったみたいだ。
 快速はなさきは3番線の1両のディーゼルカー(キハ54 524)。前日に乗車した釧網線と同じ形式のステンレス車両だ。リクライニングシートではあるが、固定式で真ん中から半分の席が反対向きになっている。車窓を楽しみにする乗客には反対向きはできたら避けたいところだ。
 景色というものは、先に小さく見えてそれがだんだんと近づき、それが次から次へと消え去るところに、新たな世界との遭遇のワクワク感と、潔くこの時間が流れ去る今を生きているという気持ちになる。反対向きであると、見えた景色が遠ざかっていくだけで、いつまでも視界に留まるので、これらのダイナミズムとは縁のない単調な眺めになる。
 さらに本車両の大きな問題は、リクライニングシートを後でつけ替えため(もともとは2人が向かい合わせの4人のボックスシートか)、シートと窓の位置がずれて、室内の壁が窓側になって景色が見えづらい席が少なからずあることである。その上、路線によっては、右列と左列問題があり、例えば狭い谷あいを列車が行く場合、左側の席では、崖のへりで景色が崖や森の眺めだけになるので、車窓を楽しむためには、反対向きであっても右側の席に座らなければならない。
 この花咲線も右側に湿原地帯が広がる景色が多くみられるので、右側に陣取りたい。終着根室の一つ手前の東根室駅は日本で一番東寄りに位置する駅でその駅は右片ホームの停車場でもあるので、この駅を見るためにはどうしても右側に座りたい。
 とはいえ、この時間発車の列車が混むわけはなく、席はよりどりみどりで、自分が納得できる右列の席に着いて発車を待った。乗客は、自分の他は鉄道少年3名のみだった。
 定刻5時35分発。テープ音声の案内が流れる。外はまだ夜明け前で何がなにやらよくわからないが、ここを往復するので往きに車窓が見ることができなくても気にならない。
 次の釧網本線との接続駅東釧路でも乗客は乗ってこない(結局12個先の厚床駅でようやく初めて乗客を認めた)。
 5個目の駅、尾幌(おぼろ)は右片ホームの小駅。貨物列車の車掌室再利用のダルマ駅舎が見え、周囲に牧草地が広がっているのが見える。その先に厚岸湾が右手に広がっている。日の出の時刻になったようだ。最初は紫にたなびく雲だけだったが、次第に朝日の登る地点が命を与えられたように濃い黄金色に輝き出す。湾内の赤灯台(右舷を示す航路標識)が明滅しているのが見える。

f:id:Noriire23:20180911163414p:plain

 厚岸2番線着。右片ホームが並行して2本の線路。1番線に上りの2両編成が待機している。ここは、牡蠣めしの駅弁で有名な場所であるが、この時間に売っているはずはなし。
 その先、右窓は湿地帯〔別寒辺牛(べかんべうし)湿原:人の手が加えられていないという別寒辺牛川が厚岸湾河口に作る湿原〕となるが白く雪が積もっている。テントを張ってこの時間にワカサギ釣りをしているヒトがおり、歩いてこれからテントを張ろうというヒトもいる。
 列車はその先原生林を走る。右手の湿原には小高い丘があるので、その上から先ほど厚岸湾で見た日の出が何度も繰り返される。
 厚床、7時10分着。左片ホーム。モルタルづくりの駅舎が見える。
 高校生が3人乗ってくる。

            (この項続く)

やっぱ、北海道~(第19回)

(続き)

 列車は西に向かい、やがて天塩川を渡る。西名寄駅は右片ホーム。小さな納屋のような駅舎があり、左側には側線あとと思しき空き地がある。ここで、列車交換をすることもあったのだろう。周囲は水田地帯。
 天塩弥生も右片ホーム。西名寄よりは少しサイズの大きな駅舎がある。左手が牧草地になり、山の景色が近くなってきている。スピードも落ちてきている。それほどの勾配があるとも思えないが、これからの山あいを走る余力を残そうという走り方である。ただ、時速15キロくらいと不自然なくらいにあえぎながら走る。と、周囲がたちまち山の中になる。5月というのにザラメの残雪が熊笹にへばりついている。列車は時計の反対周りにループするように走り高度をかせいでいるように走る。向きが西になる。さらに残雪が多くなる。
 初茶志内トンネルに入る。峠を抜けようとしているのだろう。
 すぐに抜けると、周囲は雑木林で左向こうの景色がすっきりと見える。まだ、新緑には早くて景色は冬が終わってますというだけの素寒貧とした眺めだ。

    列車はさらに高度を上げていく。
 家一軒見えないこのようなところに毎日列車が走ることが不思議で仕方がない。
    陽が左になる。左手下は谷である。山にへばり付くようにして、雑木林の中をさまようように走る。
 短い三つ目の熊牛内トンネルを抜けると、すぐに名雨トンネルに入る。依然、上り基調をうなりながら走る。トンネルを抜けると積雪が30センチほどある。と、列車は下りになって、駆け下りていく感じで走る。やがて平たい土地を走るようになる(時刻は16時36分)。積雪は依然として多く、ところどころに水芭蕉が咲いている。
 北母子里(きたもしり)で、唯一の女の子が降りていく。その昔、氷点下41.2度となって日本最低気温を観測したことで有名な地である。冬は危険な場所なのである。
    その先も山中をだいぶ走り、湖畔駅着。以前に来た時には、この途中で「白樺」と「蕗ノ台」という小駅があったが、1990年に廃止になった。湖畔は、朱鞠内湖の湖畔のことであるが、あたりは、誰が見ても駅名の付けようがない場所である。その湖は水が少なくなっているようで、朽ちた樹木が水面から顔を出している。
 朱鞠内17時4分着。8分停車。

 この線は、理由はよく分からないが、朱鞠内でほとんど分断された時刻ダイヤとなっている(以下は1989年8月のダイヤ:JTB時刻表より。白樺駅と蕗ノ台駅が残る)。この列車だけが、唯一朱鞠内で長時間待たなくても先に行ける。下り列車では、このような好接続の列車は存在していなかった。 

f:id:Noriire23:20180909111818p:plain

 駅構内には腕木信号機があり、駅員が二人いて忙しそうに動き回っている。以前来た時にはいなかったのに、廃止が決まり乗客が増えたせいだろうか。改札窓口で硬券の入場券を購入。一緒に乗ってきた鉄道少年たちが構内をあちこち動き回っている。17時12分発。
 次の共栄は右片ホームの停車場。近くには全く人家が見えない。
 だいぶ走って平坦な土地となり、さらに走って政和(せいわ)右片ホームの停車場。馬小屋のような駅舎が残っている。右手の山は見事なくらいに雪山のままである。
 緑色のトラス橋を渡り、右窓に川が見えはじめる。雨竜川である。ゆったりした流れは、どこか天塩川と似ているが、水の流れる方向が逆で列車の進行方向である。左右の林には、白樺がこれでもかというくらいに生えている。北海道で白樺を見るたびに、高校生時代に読んだ、会津若松藩が戊辰戦争に敗れ、結果的には北海道に強制移住を余儀なくされて、苦労して土地を開拓する話で、白樺はすぐに燃えてしまい、寒い冬に燃やしても燃やしても暖が取れないということだけがよみがえる。
 牧草地が多くなるが、人家は見えない。
 陽が間もなく山に隠れようとしている(時刻は17時46分)。
 左手が牧草地で、右はクマザサ、道路、水芭蕉の群生地である。雪の重みか経年変化かで屋根が潰れた廃墟が2軒。その先に雨竜川を渡ると右手前方にまちが見えだす。
 上幌加内 右片ホーム。乗降口のためだけの一両の長さの木のホーム。乗り降りなし。
 17時57分幌加内着。2分遅れている。この線の途中駅としては一番大きな駅で、そば粉の産地として全国的にも有名な町である。下り列車と交換。腕木信号機があり、昔ながらのタブレット交換を駅長が行っている。
 次の新成生(しんなりう)は、左片ホームの停車場。上幌加内と同じ木造のホーム。車両がはみ出て止まった時に、列車の前方が道路にかかっている。
 山が遠ざかったせいで、この辺では陽が沈んでいない(18時5分)。北海道らしい殺風景な景色が続く。
 沼牛 左片ホーム。駅舎は化け物屋敷化している。その近くには古ぼけた倉庫がある。
 列車は再び登り勾配となり、左右に白樺林が行き過ぎる。終点深川に到着までにまだ越えなければならない峠がいくつかありそうだ。左手にダムのようなものが見える。一部に氷が張った水面が見える。
 間もなく幌加内トンネルになり、すぐに下り勾配に変わる。トンネルの入り口が峠のようである。勾配が25パーミル(1000分の25)の標識が見える。と、右手の視界が開け列車が随分と高いところにいることがわかる。蛇行する雨竜川の水面が夕日を浴びて光っている。
 陽がようやく隠れた(18時20分ころ)。快晴に近い好天の一日だった。
 鷹泊 右片ホーム。大きな納屋のような旧式の木造駅舎が残る。右手、道路の向こうに雨竜川が流れる。
 下幌成 左片ホーム。短い木造のホームに木造の待合室がある。
 幌成 右片ホーム。駅舎は壊され、貨物列車の車掌車両がペンキできれいに塗られたあとぽつんと置かれてある。
 右手前方にまた、夕陽が顔を出す(18時32分)。
 宇摩 左片ホーム。やや長めの木造のホームだが、待合室がない。
 平地となって地平線が見えるようになってきた。陽は完全に没している(18時38分)。
 多度志 右片ホーム。久しぶりにまともな乗客(女学生)が乗ってきて、車掌から切符を買っている。何となく、車掌の存在価値が出たみたいで思わずほっとする。
上多度志 右片ホーム。やや小さめだが木造の駅舎があり、駅前に10軒ほどの人家が建っている。
 その後、再び少し登り勾配となり、山中の切通しのようなところを走り出す。列車が巻き起こす風であおられて、クマザサが大きく揺れている。残雪がところどころに見える。
 あと二駅で終点なのに地形的に険しいところに分け入って行く。トンネルに入る。依然、登り基調。
 しばらくして下りになるが、山中だ。勢いがついてスピードが上がる。
 景色が開けてきて、周囲が水田になる。円山 右片ホーム。盛り土でできている。簡易な物置のような待合室。暗闇が迫ってきているが、十分景色は見える。田起こしをするトラクターのテールランプが赤く光り、左手前方にまちの明かりが見え出す。
 ようやく、ヒトが住むところにまで戻ってきたという気分になり、もの凄い未開の地をずっと走ってきて深名線が存在する環境の過酷さを実感した旅だった。
 ようやく荒起こしを終えた水田に水が張られているところもある。自分の故郷(石川県)では、通常なら2週間前には、田植えはすべて終わっているので、所変わればということを実感する。
 左手から函館本線の線路が近づいて並走するようになる。
 深川駅4番線18時59着。1分ほど早着。4番線ホームは他と比べて一段低くなっている。駅長がタブレットを運転手から受け取っている。
 次は1番線から19時19発のスーパーホワイトアロー24号。4号車に乗り、車窓を見るために深名線では、読むのを我慢していた武田百合子富士日記の続きを読む。
 20時20分札幌着。駅前のホテルにチェックインする。

                         (この項、終わり)

やっぱ、北海道~(第18回)

vi. 深名(しんめい)線
 深名線は、1995年9月4日に廃止された。深名線なんてシンメイ(知るめい)というヒトの方が多いだろう。本ブログで初めて写真を添付する。JTBの1989年8月の時刻表中の地図である。

   深名線函館本線深川駅と宗谷本線名寄駅をL字クランクのように結び、あえて山合いを走る121.8キロの長大なローカル線であった。 

f:id:Noriire23:20180909110705p:plain

 距離は、東海道線ならば東京から静岡県三島までに匹敵する。なぜこんなところに鉄道が必要なのか説明が付かないようなところを走る。そこを面白がって乗りに行く鉄道ファンがいた。ここは積雪が多く、冬季は道路が封鎖されるために鉄道が必要な代替交通手段ということで、第2次特定地方交通線に指定されながらも、1995年9月まで存続していた。しかしながら、この線の赤字係数は常に全国のトップクラスで、例えば1980年では係数2852で、全国第三位。100円の収入のために2852円の営業費用を掛けていたので、廃止は時間の問題だった。
 見どころはどこだろう。山合いを走るために強力なエンジンを1両に二基搭載したキハ53系というこの線でしか見られないディーゼルカーと、朱鞠内湖(しゅまりないこ)付近の原生林の風景くらいかもしれない。この線ほど、何もないところを行くというローカル列車というイメージを具現している線はないと思う。季節によってはソバ畑の白い花が線路わきまで咲き乱れる。途中の幌加内はそば粉の生産量が日本一の土地であるものの、そこで途中下車してそばを食べたことはない。また、直通の列車が極端に少ないことも特徴で、通しで乗るためのスケジュールに工夫のしがいがある線であった。
 ローカル線全般にいえることは、とても不便なダイヤになっているところをどう料理して、効率というスパイスを少し効かせて、どのように満足できる旅にするかの計画を練るところが一番意欲を掻き立てられるところだ。
 自分は当時勤め人でもあり、旅行できる時間も限られていて、その中で踏破するのが難しい線にできるだけたくさん乗って、できれば近くの史跡にも立ち寄り、その中でその土地の名物を味わう機会があれば最高と考えていた。得てして、ヒトは何がしかの拘束がある方が、ささやかな達成感を感じることができるのだろう。自分はその程度でいい、高望みはしませんという謙虚な気持ちで出かける方が気が楽と考えていた。
 そういう線なので、合計3回乗りに出かけている。1985年6月、1994年5月、1995年7月の3回である。深川から名寄に抜けるコースを2回とその逆を一度だけ乗車した。以下は、名寄から深川に向かって乗車した1994年5月14日(土)の車窓の記録である。

 深名線深川行は、名寄駅3番線16時00分発のディーゼルカー キハ53 507の一両である。外見からは違いがよく分からないが、このディーゼルカーキハ53系には、強力ディーゼルエンジンが二基搭載されている。ボディカラーのクリーム色に赤のラインは、ベンガラ色一色の他の路線車両(キハ40系)と比べて何となく外見だけ急行列車のような高級感が漂っている。が、一両編成のため、アンバランスな感じになっている。
 稚内から乗車した急行サロベツを15時42分名寄で降り、改札口でスタンプ(スタンプ上の文句は「きらきら輝く樹氷の駅 名寄駅」)を押した後すぐさまにこの列車に乗り込むと既に、自分と同じ趣味と思われる青年が何人か乗り込んでいた。が、まだガラ空きなので列車のほぼ中央の12番のA~Dの4人席のボックスを占拠する。一日数本の列車でこの接続のスケジュールが組めたのが嬉しい。景色を眺めるために進行方向の窓側の席を確保することは時に空腹よりも大事である。また、車両の中央は揺れが少なくメモも取りやすいし、駅標などを眺める時にも都合がいい。ただし、混んでくれば、4人分の席はいつでも相席にするのは、当然のことなので、4人掛け占拠は時と場合に依る。車両中央の通路はつるりとしたシートが敷いてあるが、座席のあるところ床は木製のままで油が沁み込んでいて、この列車の歴史を感じさせる。
 結局、総勢12名で定刻に出発。女性は1名のみで後の男性は恐らく自分と同じ鉄道趣味の同好の士のようだ。列車は旭川方面へ走り出すが、すぐに宗谷本線と別れる。懐かしさを感じさせるネジまきのオルゴールのような、今にも止まりそうなチャイムが鳴って、車掌のアナウンスが始まる。

                       (この項、続く)

やっぱ、北海道~(第17回)

(前回の続き)
 今回は、自分にしては珍しく、この鉄道の終点の町増毛で観光し1泊する。
 鉄道がなくなっても、町自体が同時に消えるわけでもないが、北海道のこの町に車やバスでやってくることが今後確率的にないだろうなという予感があり、また、ここは北前船の時代から開けた場所で、見所がありそうなので明るい時間に観光することにした。が、町の中心部のホテルは季節が良く飛び石連休のせいか満室で、町から少し離れた民宿しか予約が取れなかった。
 本日の見所としては、以下の二つ。
・留萌灯台とそこからの眺め
・日本最北の酒蔵「国稀酒造」で、国稀を試飲
 翌朝増毛発7時35分発の列車で引き返すので、観光するとしたら今日中。予約した民宿は地図上では確認できたものの、町から離れているので徒歩でどれくらいかかるかも若干気になった。
 留萌灯台に行く前に、手に入れておきたいものがあった。
 それは、増毛駅の入場券。面白いことに駅では販売しておらず、駅前の土産物屋にJRの通常の硬券と観光地の絵柄の入った少し大きめの硬券が販売されていた。それぞれ1枚170円。2枚ずつ購入。昔から、髪の毛が生えるご利益を期待するお守りにもなっている。神戸の会社時代の同僚でスキンヘッドのAさんに次回会ったらお土産にしよう。高知県を走る予土線に半家(はげ)駅があるが、無人駅なので入場券はないようだ。あっても買う客は少ないだろうが。
 そのあと、増毛灯台まで歩く。小高い丘にあるので登りである。最近はインターネットで全国の灯台を訪れた人が、道案内も兼ねて灯台にたどり着くまでの写真を掲載している。増毛灯台にも親切な案内があったので、それをスマホで見ていけば道を間違えることは少ない。6、7分ほど掛かって灯台に着く。白の四角い灯台に幅広の赤い帯が入っている堂々とした体躯である。もちろん、無人化されているが、周囲には雑草もなくきれいに整備されている。明治23(1890)年12月25日に初めて点灯された歴史がある。  最初は木造であったらしい。灯台の下から見る増毛の港の景色が素晴らしい。思わず深呼吸して、見入りたくなるような眺めだ。また、足元をみれば、雑木林の先、間近に増毛駅のホームが見える。駅からはちょっと遠回りになるので、何かこの視線のところをジグザグに通路でもできれば、気軽に景色を楽しむ観光のスポットになるように思った。
 次に国稀酒造に向かう。駅からの道まで戻り、その先を少し南西に歩いたところにあった。観光バスが何台も駐車場に止まっていて、店の前には多くのヒトがたむろしていてメジャーな観光地となっている。店構えは昔の雰囲気を残し、木造2階建て。「酒」という大書した布の書が店先に掛かっていて、ここが酒屋であることが分かりやすくなっている。酒蔵の中も見学できるが、時間が気になったので、試飲をいくつかして、先を急ぐことにする。ワンカップを2本と店の名前の入った紺色のTシャツを購入。
 さて、今日の宿の民宿へ向かうためにさらに南西へ伸びる国道231号線をてくてくと歩く。天気が良いので気持ちがいい。実は車があれば見たいものが一つあった。この先にコブのように海岸線が突き出た箇所があり、そこの背後に暑寒別岳(標高1492メートル)というどっしりとした山がある。その山容を一度見てみたいものと思う。歩いていて少し左手の前方が開けるとその山が見えるのではないかと期待してしまう。
 やがて川が海にそそぐところにカモメが大挙して舞っているところに出た。
 なんと、川にはサケの大群が泳いでいた。川幅は3メートルぐらいで浅瀬になっているので、たくさんの背びれが見える。川の近くまで降りていく道があったので近くまで行ってみることにする。
 多くのサケは疲れ切って、傷つき皮膚がボロボロになっている。産卵を終えた後なのだろうか。力尽きて水に漂い、天寿を全うしているのもたくさんいる。
 カモメはそれを狙っているのかどうか曖昧である。特に水面を注視しているわけではない。視線はあえてサケの方向を避け、風景を眺めているだけのようにも見える。たまたま、ここで羽を休めているようにも見えるが、エサが簡単に取れるようなこのような場所で冷静にしていることが不可解な風景だった。単に、すでに好きなだけサケを味わい尽くし、食後にくつろいでいるだけなのかもしれない。
 いつまで見ていても飽きない風景であった。自分の他にヒトがいないのも不可思議だ。新潟市村上市三面川の「イヨボヤ会館」のような施設をつくれば観光客もくるように思うが、そういう欲のない土地なのだろう。
 その先は少し登り勾配になるが海に沿ってさらに15分ほど歩き、ようやく右手に予約した民宿が現れた。
 鄙びた宿で、風呂は昔使用していた漁船の再利用で湯舟がしつらえてあった。
 ビールが飲みたいというと、では町まで買いに行きましょうとトラックの助手席に乗り出かけることになった。アルコールを置いていない民宿とはどうしたことかと不思議だった。缶ビールを2本買いにわざわざ町まで歩いてきた道を往復した。
 その夜は、波が海岸にぶつかる音を聞きながら遠くまで来た気分を布団の中で満喫した。

                         (この項終わり)