やっぱ、北海道~(第18回)

vi. 深名(しんめい)線
 深名線は、1995年9月4日に廃止された。深名線なんてシンメイ(知るめい)というヒトの方が多いだろう。本ブログで初めて写真を添付する。JTBの1989年8月の時刻表中の地図である。

   深名線函館本線深川駅と宗谷本線名寄駅をL字クランクのように結び、あえて山合いを走る121.8キロの長大なローカル線であった。 

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 距離は、東海道線ならば東京から静岡県三島までに匹敵する。なぜこんなところに鉄道が必要なのか説明が付かないようなところを走る。そこを面白がって乗りに行く鉄道ファンがいた。ここは積雪が多く、冬季は道路が封鎖されるために鉄道が必要な代替交通手段ということで、第2次特定地方交通線に指定されながらも、1995年9月まで存続していた。しかしながら、この線の赤字係数は常に全国のトップクラスで、例えば1980年では係数2852で、全国第三位。100円の収入のために2852円の営業費用を掛けていたので、廃止は時間の問題だった。
 見どころはどこだろう。山合いを走るために強力なエンジンを1両に二基搭載したキハ53系というこの線でしか見られないディーゼルカーと、朱鞠内湖(しゅまりないこ)付近の原生林の風景くらいかもしれない。この線ほど、何もないところを行くというローカル列車というイメージを具現している線はないと思う。季節によってはソバ畑の白い花が線路わきまで咲き乱れる。途中の幌加内はそば粉の生産量が日本一の土地であるものの、そこで途中下車してそばを食べたことはない。また、直通の列車が極端に少ないことも特徴で、通しで乗るためのスケジュールに工夫のしがいがある線であった。
 ローカル線全般にいえることは、とても不便なダイヤになっているところをどう料理して、効率というスパイスを少し効かせて、どのように満足できる旅にするかの計画を練るところが一番意欲を掻き立てられるところだ。
 自分は当時勤め人でもあり、旅行できる時間も限られていて、その中で踏破するのが難しい線にできるだけたくさん乗って、できれば近くの史跡にも立ち寄り、その中でその土地の名物を味わう機会があれば最高と考えていた。得てして、ヒトは何がしかの拘束がある方が、ささやかな達成感を感じることができるのだろう。自分はその程度でいい、高望みはしませんという謙虚な気持ちで出かける方が気が楽と考えていた。
 そういう線なので、合計3回乗りに出かけている。1985年6月、1994年5月、1995年7月の3回である。深川から名寄に抜けるコースを2回とその逆を一度だけ乗車した。以下は、名寄から深川に向かって乗車した1994年5月14日(土)の車窓の記録である。

 深名線深川行は、名寄駅3番線16時00分発のディーゼルカー キハ53 507の一両である。外見からは違いがよく分からないが、このディーゼルカーキハ53系には、強力ディーゼルエンジンが二基搭載されている。ボディカラーのクリーム色に赤のラインは、ベンガラ色一色の他の路線車両(キハ40系)と比べて何となく外見だけ急行列車のような高級感が漂っている。が、一両編成のため、アンバランスな感じになっている。
 稚内から乗車した急行サロベツを15時42分名寄で降り、改札口でスタンプ(スタンプ上の文句は「きらきら輝く樹氷の駅 名寄駅」)を押した後すぐさまにこの列車に乗り込むと既に、自分と同じ趣味と思われる青年が何人か乗り込んでいた。が、まだガラ空きなので列車のほぼ中央の12番のA~Dの4人席のボックスを占拠する。一日数本の列車でこの接続のスケジュールが組めたのが嬉しい。景色を眺めるために進行方向の窓側の席を確保することは時に空腹よりも大事である。また、車両の中央は揺れが少なくメモも取りやすいし、駅標などを眺める時にも都合がいい。ただし、混んでくれば、4人分の席はいつでも相席にするのは、当然のことなので、4人掛け占拠は時と場合に依る。車両中央の通路はつるりとしたシートが敷いてあるが、座席のあるところ床は木製のままで油が沁み込んでいて、この列車の歴史を感じさせる。
 結局、総勢12名で定刻に出発。女性は1名のみで後の男性は恐らく自分と同じ鉄道趣味の同好の士のようだ。列車は旭川方面へ走り出すが、すぐに宗谷本線と別れる。懐かしさを感じさせるネジまきのオルゴールのような、今にも止まりそうなチャイムが鳴って、車掌のアナウンスが始まる。

                       (この項、続く)