北海道の鉄道の魅力(第3回)

1.失はれた鉄路
ⅰ.名寄本線・渚滑線・興浜南線・興浜北線・勇網線
 年が明けて、1月下旬から2月の本格的な冬の寒さの到来とともに、北海道から流氷のニュースが届く。
 それを聞くと流氷を見に行きたくなる。流氷は接岸してしまえば、単なる無秩序な大きな氷の塊である。ごちゃごちゃと堆積して、がれきの山のようになる。が、近年はその状況が、地球温暖化のためとかで変化し、流氷が岸に着岸しなかったり、着岸しても一晩の間に遠くに離れたりと、状況が変化している。国鉄がJRにトランスフォームする際に、不採算路線をどんどん廃止していたころに、自分が訪れた1980年代後半の流氷は明らかに暴力的にオホーツク海から北海道に押し寄せていた。その雑然さが自然の造形であり、所々に見える、透き通った氷の色と光の反射があれば、明らかにがれきではないことがわかった。また、景色としてはそのとりとめのない見晴らしとその澄んだ辺りの大気も格別であった。流氷を車で見に行くのは、そのドライバーである限り楽しくない。わき見運転ができないからである。流氷は、移動しながらその変化する姿をできれば少し離れた地点で眺めたい。そのため鉄道旅行が個人的にはお勧めだが、観光バスの方がどこまでも接近できるしどこでも停車できるので圧倒的に勝っている。ただし、一人旅で観光バスに乗るほど寂しいものはない。という理由で、その中間をとれば、鉄道での流氷見物は理にかなっている。その流氷が着岸するオホーツク海沿いに、本章タイトルの5線が1985年まで走っていた。例えば1980年と2016年の鉄道地図の比較で最も変化が大きいのは、北海道のオホーツク海側のこの部分である。極北の稚内から網走まで、途中の北見枝幸と雄武(おむ)間を除き、残り280キロ余りは鉄道がつながっていた。東京から東海道線豊橋の手前ぐらいまでの距離である。それが1989年5月までにすべて廃止され、鉄道地図に大きく空虚なスペースができた。

 自分は、1980年代、偶然にも世の中に国鉄の赤字線廃止のニュースがあふれたために否が応でも関心が湧き、実際に乗りに行ってみたいなと考えた。それを行動に変容させたのは、当時話題になった宮脇俊三の「時刻表二万キロ」という当時の国鉄乗りつぶしの著書であった。それを読んで、これはもう乗りに行くしかないと感じた。すでに社会人となり、結婚もしていたが、当時有名だった檀一雄の火宅の人になるかもしれないとおののきもあった。でも、心の奥底の感性が今廃止線の風景を自分の目で見ておかないと一生後悔するぞと叫んでいた。中学時代から、地理と歴史には人一倍興味があり、それを築いてきた具体的な遺産である鉄道が消滅すれば、自分はもうその土地を訪れる機会自体を奪われるに等しいと感じた。そのように急かされるような乗り方から、鉄道趣味の世界に入り込んだ。実際、それは余り楽しい入り方ではなかったが、迷う暇がなかった。乗らなければ、もう二度と乗れないところに行くというのは、急かされているだけと感じたので、正直楽しくなかったが、そういう時代に遭遇した一人として、何かを見ておく必要があると感じた。義務感だけで、何が楽しいのか自分でも分からず、何となく失われていくものが、重い歴史を背負っていそうな箇所ばかりであり、もう二度と復活しないだろうからという諦観漂う旅であった。まさにリアルタイムで歴史の崖っぷちをたどる経験を自分に強いるような、あらかじめ周到に準備された通夜に参列するような気持ちの旅であった。
 当時は特に鉄道に詳しいわけでなかった。時刻表で、廃線の旅を計画と実行しながら鉄道のことを学ぶというOJT(On the Job Training)で知識を身に着けた(仕事でないので、" Job "は間違いだが)。改めて超ローカル線の不便さを時刻表を見て初めて知った。鉄道の専門誌も購読しておらず、本屋での立ち読みで見る毎月の時刻表巻頭のUpdate記事や新聞の3面記事の隅に時に見つける廃止の予定やお別れ列車の小さな写真を見て情報を得ていただけだったので、知らぬ間に廃止になった線区があり、そのたびに、ため息だけが出た。
 自分は、早々と電化された北陸本線沿線に生まれ育ったので、当初非電化で単線の区間を乗車しただけで、心底驚いた。
 1987年に埼玉県に引っ越して東北・上越新幹線の始発駅大宮から川越に向かう川越線が単線のディーゼルカーだったことや、相模線で入れ違いに通過する貨物列車からバシッとタブレットが運転手から投げ込まれる風景にはたまげたものである。月面にヒトが降り立つ時代に、単線で駅や信号所ですれ違いのためにじっと待ち合わせる列車があることを知らなかったのである。
 そんなスロースターターの鉄道ファンにとって、廃止予定の線路の多くある北海道は遠すぎた。当時ヒラのサラリーマンにとっては、簡単に行ける場所でなかった。
 しかしながら、なぜか執念だけはあった。ムキになっていた。会社勤めの合間にこの土地に二度、三度と出かけてまもなく廃止になる線に乗りに出かけた。夜明け前から陽が沈むまで連日乗り続けた。それだけ、若かったということだろう。