やっぱ、北海道~(第11回)

ⅲ. 夕張駅
 炭鉱線の駅には一種独特の雰囲気が存在した。
 2018年にもなると、炭鉱とはそもそも何かということになるが、高度成長期の日本の昭和40年代(1960年代)、北海道と九州に炭鉱が生きていた。そして、数か月に一度は必ず、炭鉱での落盤事故が起こり、テレビでニュースになる時代だった。
 駅に近づくとボタ山と鉱員が住む炭住という平屋の住宅が丘の上に建っていた。
 『幸せの黄色いハンカチ』という映画では、炭住に住む妻(倍賞千恵子)に、刑務所を出た夫(高倉健)が会いに行く。
 自分の中学時代の暖房は、石炭で、当番が毎朝用務員室横に積まれた石炭をバケツで取りに行き、その日はストーブの火の始末の係になるが、煙突に煤(スス)が溜まったりして不完全燃焼すると教室中ケムリが充満したりした。が、それも蒸気機関車(SL)の香りでもあり、当時から嫌いな匂いでなかった。列車が炭鉱線の駅に近づくと、SLが居なくても石炭の燃える匂いがするような気がした。
 夕張駅は、炭鉱駅の代表格であり、他の炭鉱線が1980年代に姿を消しても、2018年まで生き延びていた。が、ついに19年3月末で廃止される。
 古い写真で見る限り、夕張駅は、当初は石炭を積んだ貨物列車を留置する側線がいくつもある広い構内だったが、それが今は線路が一本の片ホームだけになり、駅舎はおとぎの世界的な造作で、内部はみやげ物屋に変わって、炭鉱駅らしさが完全に消滅してしまった。
 夕張駅は昔は追分駅から延びる本線的な終着駅であったが、石勝線という札幌・千歳空港から帯広と釧路方面を結ぶ高規格鉄道線が1981年10月1日に開通し、同時に夕張線は、石勝線の支線扱いになった。自分もこの年に大学を卒業し大阪で会社勤めを始めたので、リアルタイムで石勝線開通のニュースの記憶がある。
 以下は、一番直近の夕張線の乗車記録である。


 2016年3月23日(水)に会社の休みを取って、新千歳空港ANAで9時40分に到着した。この日は、石勝線と根室本線経由で帯広までの旅。旅の目的は単に2周目の旅と3月末で無くなる北海道のいくつかの駅をこの目で見ておきたかったためである。石勝線の途中駅の新夕張駅で下車し、夕張支線で夕張終点までを往復をする。なお、夕張で何かするということは、端から予定には入っていない。前回は1986年3月に行ったきりなので、30年ぶりの訪問になる。夕張駅がさびれた原因は、炭鉱廃止後、札幌へのアクセスが、圧倒的にバスに有利だったためであろうと思う。列車では、大回りして地図上をコの字に移動せねばならないが、バスではほぼショートカットで、一直線で効率的に行ける。鉄道の物資の中心が石炭からヒトに変わった時点で、夕張線の存在価値はなくなっていたのだろう。  
 10時15分新千歳空港発の快速エアポート103号札幌行で、次の南千歳まで行く。車両は特急車両で2番線に停車している。後ろ向きに走り出す。新千歳空港駅は天井の低い、窮屈な地下の島式ホームなので、景色も見えず、全体がよくわからないので、いつ来ても方向感覚がすっきりしない駅である。
 単線を3分ほど走って地上に顔を出し、南千歳2番線着。ここは、かつての千歳空港駅で、空港ビルまでを屋根付きの長い一直線の歩行者用通路が繋がっていた。飛行機出発までの時間がないときに、何度走ったことだろう。その通路の入り口部分が、スパッと切り取られて少し残されているので、現在の駅の改札脇に遺構のように残っている。
 次の新夕張行各駅停車は、10時37分に3番線から出る1両のディーゼルカー(キハ40 1706)。ぽつぽつと4人のボックス席に乗客がいる程度。新夕張到着予定が11時50分なので約1時間の旅。
 駅を出るとすぐに左手に分岐して、千歳線と別れる。小高い丘がうねり、平べったい黄金色の牧草地が広々と広がる。草がきちんと短く刈られているので、牛の背のようなさっぱりした風景だ。まだ、春の若草が芽吹く前の冬枯れた景色で、日陰に雪がなごり程度に残っている。空に青みが増して、雲が白く輝く。
 トンネルを抜けると白樺林。雪が目立つようになって、さらにしばらく走って、信号所(西早来信号所)で停車。この線は単線なので、列車の交換のためのようだ。四両編成ほどの上り特急列車が、素早く過ぎ去っていく。
 その先は、列車がスピードを上げる。平地に出る。列車は丘の中腹のような高いところを走っている。やがて、右手眼下に室蘭本線の複線の線路が迫ってきて、こちらの線路の下をアンダークロスして、3線が並走するようになる。映画にでも出てくるようなスケールの大きな立体交差である。やがてポイントでお互いの線路間の行き来ができるようになって室蘭本線との接続駅追分に近づく。
  追分2番線着。10分停車。

                          (この項、続く)